こんばんは。サブ主人格です。

僕は、基本的に日常生活を円滑に回すために動いています。


あとは、ちょっとした文筆業をやってます。

ライティングのアルバイトとは別で、ペンネームを使って書くようなタイプの物です。


スタンスとしては障害を完全にクローズにしてやっている訳では無いのですが、解離性同一性障害だという事は今のところ言うつもりは無いです。

解離性同一性障害は、まだまだ知名度も低く、また知っていたとしても「急に攻撃する危ない人」という印象が強いです。(恐らく、推測ですが、よく殺人事件の加害者やそれに類するキャラクターとして、フィクションの世界で描かれがちなのも、偏見が生じる理由だと思ってます)。

なので、身バレしない程度にブログは書いていきます!よろしくお願いします。




さて、タイトルに書いた「DIDの感覚」について少しお話します。


僕は他の人格たちを、自己の延長だとは思っていません。彼ら、彼女らは、各々個性があります。年齢や性別、性自認やジェンダー、趣味や特技、好きなアーティスト、嫌いな食べ物、主義主張、思想や哲学、果ては喫煙者の人格でも好みの銘柄はバラバラです。


その多様性は、単なる自己のグラデーションの枠には収まらず、時に衝突しながらも共存する他者の集まりです。


よく、親しくなった人に、「解離性同一性障害なんだ」と打ち明けると、「私/俺も、そうかもしれない!」と言われる事があります。

実際困っている可能性もあるため、何故そう思うの?と聞くと、「日によって気分が変わるから」「職場とプライベートでは、別人のようだから」と返ってくるパターンが多々あります。


しかし、日によって気分が変わることはごく自然な事ですし、もしそれが極端なら、そしてその気分変調によって自分や周囲が困っているなら、気分障害を疑って受診するのもいいかもしれません。


職場とプライベートのように、TPOによって自己の振る舞い方に変化をつけるのは、寧ろ社会的に推奨されています。例えば、自宅でくつろぎながら友達とビデオ通話をする振る舞い方で、会社のzoomに出たらヤバいわけですから。逆に「ずーっとTPO問わず同じ自己像/キャラクター性で生活している」という人は、あまりいないでしょう。


そうした自己のグラデーションと、人格が複数ある事を同一視される傾向は結構強いです。別に、それが嫌とか、辛い訳では無いのですが、(ああ、なんかちょっと誤解されているな……)とは思ってしまいます。


ちなみに、発症〜23歳くらいまでは、記憶の共有がほとんどされませんでした。

僕たちは精神科病院に入院しながら、大学に通っていたのですが、当時の生活ぶりはちぐはぐで、しっちゃかめっちゃかでした。


いきなり知らない人の家で目が覚めたり、気付いたら富士樹海の近くまで来ていたり、知らない物がどんどん増えていったり。

怖かったのは、記憶がなくICUにいて、身体中に点滴や心電図のカラフルな管や人工呼吸器がつけられていた事です。幸い数日で回復しましたが、知らぬ間に自死している可能性がある、というのは本当に恐ろしかったです。


22歳くらいから解離性同一性障害の権威のような主治医に診てもらえる事になり、少しづつ記憶の共有のトレーニングや、「内界」といって頭の中にある人格の居場所を認識したり、人格同士でコミュニケーションを取るようになりました。

それ以降の生活は、まあ……未だにずーっと離人感があって、まるでテレビを見ているように視界を感じますが、肝心の記憶は6〜7割ほど共有されるようになりました。


そうした今だから言えるのは、僕にとってはDIDは頭のシェアハウスだと思っています。最初は正直互いに迷惑な存在、厄介な存在だったのが、今では随分フラットになり、広義での家族といった感覚です。時に助け合い、時に罵りあいながら、なんだかんだで傍にいる感じですね。


この形態になるまでは時間がかかりましたが、家族って時間をかけて、ようやく真に家族になるのかも知れません。きっとそれは、誰しも。


読んで頂きありがとうございました。

では、また。


サブ主人格