取り敢えず、東京の病院に就職したものの、働き過ぎで、身体を壊してしまい、2回程、入院生活を送るようになりましたが、その後も体調のアップダウンがしばしばあり、一番辛かった時期ですね。まぁ、そんな中でも、自主制作カセットの作製や店への卸し等をやっていた訳ですが、前回、ちょっと書いたように1990年代には「ジャパノイズ」が一つのキーワードになっていました。まあ、そんな中で、突然、復活したK2ですが、何が「ジャパノイズ」かもよく分からないまま、また、8チャンネルと4チャンネルのカセットMTRとデジタル・シンセ(これは無駄に高かった)やBOSSのマルチ・エフェクターなんかを購入して、大学生の時買ったアナログ・シンセ(Roland SH-101)の多重録音による1980年代初頭のM.B.のようなノイズ作品を録音し始めます。まぁ、ダウナーな電子ノイズで、それのミックス違いとかも、De-Composition(脱作曲)と称して作っていた訳ですが、ある日、昔(この時は既に風呂・トイレ付きのマシなアパートに引越しています)、集めたメタル・ジャンクを引きずり出してきて、それを引っ掻いてみたんですよ。そしたら、意外と面白い音が出たので、それを録音することにしました。とにかく、メタル・ジャンクとかクラリネットとかヴォイスとかの生音を録音していました。その内、アパートの一室に窓が無い部屋があって、そこの天井部の支え(サシ)に鉄柱を通して、そこからチェーンでメタル・ジャンクを釣って、そこでの音を2本のマイクで拾い、更に、それを先述のマルチエフェクターに通して、録音を始めました(通称「メタル・ジャンク部屋」)。それで、ほぼ同時期に作ったのが、⓵カセット作品”De Novo”と⓶ファーストCD “Metaloplakia”, それから⓷カセット作品”Maximum Lateral Pressure”でした。それぞれ、メタル・ジャンクは用いているものの、内容は大きく異なります。⓵先ず”De Novo”ですが、これは先述のメタル・ジャンク部屋を用いた一発録りで、いわゆるフリーミュージックのように「演奏」し、多重録音はしておらず、ライブ的な作品です。マルチエフェクターのリバーブが上手く効いていて、これは、中々、評判も良かったです。なお、この辺りのK2のカセット作品は、後に、イタリアの浦島から6枚組CD木箱入りボックスセット”Burst After Burst (Early Recordings 1990-1996)”として纏めて再発されています。

K2 “De Novo” cassette


K2 “Burst After Burst (Early Recordings 1990-1996)” 6枚組CDセット。


 ⓶次に、CD”Metaloplakia”ですが、この作品は自分の作品の中でも異質でした。と言うのも、ドラムマシンとメタル・ジャンク(或いはメタパー)を組合せた作品で、これ以後、このような作風のものは、この後、作っていません。ただ、そんなCDの中で、3曲だけドラムマシンを使わないメタル・ジャンクとデジタル・シンセの2発録りだけで作ったノンビートの曲”Human Alloy #1-#3”がありました。これは、大阪や名古屋のレコード店にも流通していたようで、25年位経ってから、名古屋の方に高評価を頂きました。また、当時、海外のレーベルやアーティストとコンタクトを取っており、その中で、ドイツのP16.D4のリーダーであったRLWことRalf Wehowskyにも気に入ってもらえ、「我々は、7秒のトラックの録音に2週間もかけるのに、日本人は何故、即興的に音楽(=ノイズ)を録るのか?」とも言われたのは良く覚えています。それが縁で、RLWのコラボCD “Talpus”や”Pullover”にも参加できましたし、私のレーベルでやっていたVersus Produkt Seriesからも7インチの両面A面コラボ・レコードも出すことが出来ました。私自身が、P16.D4の大ファンだったので、とても嬉しかったですね。

K2 “Metaloplakia”


RLW “Talpus” 5枚組CD 

RLW “Talpus” 5枚組CDセット。K2参加曲”The Lowest Karlsruhe #2”

RLW “Pullover” CD


RLW & K2 “Noise Tournament vol.3” 7-inch EP


 最後に、⓷カセット作品”Maximum Lateral Pressure”ですが、8トラックのMTRを持っていたにも関わらず、敢えて4トラックのカセットMTRで2発録りと言うことで作りあげたメタル・ジャンクによる即興演奏とカットアップ・ミックスによる試作のようなラウドで複雑な作品で、テープ操作も大胆に加えました。この作品は、第2期K2として、初めて海外のレーベル(米国Realization Recordings)から出してもらった作品で、感慨深いものでした。そんな宅録生活も行っていたのですが、この時期は、入院した時期とも被っていたりして、生活は不安定でしたね。

K2 “Maximum Lateral Pressure” cassette

(この切り刻まれたジャケ写が、先述の「メタル・ジャンク部屋」です。ちょっと雰囲気が伝わるかな?)


 それで、1994年か1995年頃だったか、丁度、その頃、雑誌の広告で知り合った美術家の方(名前は中友創くんだったかな?)から、ライブのお誘いを受けました。ただ、その頃はライブのことは全然、頭にあった訳ではなく、一旦「イエス」と答えたものの、どうしようか?と考えあぐねた挙句、4チャンネルのカセットMTRと録り溜めたカセットテープ数本(主にメタル・ジャンクやクラリネットの音)とディレイなんかを使って、そのアウトプットを直にアンプに繋げて、歪ませれば!!と思い、取り敢えず、そのセットで無事、初ライブを終えることが出来、その後は、基本「カセットDJスタイル」でライブを行うことになります。それで、その頃、C.C.C.C.やPainJerk、丁度、東京の本社(?)に異動/栄転(?)で来ていた田野さんのM.S.B.R.、そして、それから長い付き合いになるIncapacitantsなんかの当時「ジャパノイズ」を代表していたアーティストの方々と知り合うこととなり、それで、蒲田のStudio 80 (スタジオ・オッタンタ)で、確か、C.C.C.C.とM.S.B.R.とPainJerkと私K2と言うメンツで、ライブを初めて自分で企画したんだと思います(そのずっと後になってから、C.C.C.C.の日野繭子さんから「指1本でノイズやってる」と言われました。苦笑)。その時に、M.S.B.R.の田野さんから、そこでのライブ音源をドイツのレーベルから出してもらおうと言うプランもあったのですが、残念ながら、レーベル側が潰れてしまったので、その話しは流れてしまいました。それで、その時かな?、観客として来ていたT光くん(専門くん)と知り合い、当時、彼は、ノイズ関係のファンジンを作ろうとしていたこともあって、繋がりが出来、その関係で、Incapacitantsのお二人を法政大学学館ホールで紹介してもらいました。その後も、蒲田のStudio 80はよく使わせてもらうことになります。そう言うライブの経験の中で、「ジャパノイズ」がラウドでハーシュな一連の音楽形態であることを自覚したのだと思います。それで、1回か2回、Studio 80での私の企画にIncapacitantsにも出てもらったことがあって、その時に、田野さんがM.S.B.R.の機材としてKorgのギターシンセ(当然ギターは使っていません)を使っていたのを見て、美川さんが「おお、中々の名機を使ってるね」と言っていたのを、何故かよく覚えています。それから、パリ・ペキン・レコードの虹釜くんとかに、当時、代田橋にあったネッズのことを教えてもらい、そこら辺から、当時、西新宿にも店を構えたJNR(今のNEdS)とも繋がりが出来、オーナーのU田さんとも仲良くさせて頂くことになります。そこで、田野さんやJNRの常連さん達とも知り合うことになります。そんな中で、私はと言うと、国内外のアーティストやレーベルともコンタクトを広げていき、その中には、Government Alphaの吉田くんもいました。私はその時のことをよく覚えていなかったのですが、吉田くん曰く「自分がカセット作品を送って、半年位したら、やっと草深さんから返事が来た」とのこと(返事遅れてごめんなさい)。そんな中、どう言う経緯かはよく覚えていないのですが、(昔の)高円寺20000Vに出演しないか?と声が掛かり、丁度、Massonaも出演するとのこともあって、ハコの入り口から山崎くんのリハの音が聴こえてきて、これは良い雰囲気で良い音だなぁと思っていたのを、何故かよく覚えています。まぁライブが終わってから、山崎くんには失礼なこと言ってしまったのは反省しています(後にAubeの中嶋さんから言われました)。また、1990年代には、何故かIncapacitantsとコラボ・ライブを2〜3回程やることがあり、DATレコーダーで、エアー録音したライブ音源を、後にCD等で出しています。まあ、仕事の合間にライブや宅録をやっていた訳ですが、その頃は、当時、若手(今はベテラン?)のノイズ・ミュージシャンなんかが集まって、オールナイトで新宿Antiknockなんかでもライブをやってましたね。

K2 live photocopy (本当にこれ位しか写メはありません)


K2 live at Koenji 20000V


 その頃ですかね?私自身のライブ企画を色んな都内ライブハウスでやり始めましたが、ハコ代が高い!高い!特に下北沢の屋○裏は特に高かった!手持ちのお金が足らなかったですよ。まあ、なので、やっぱり蒲田のStudio 80に落ち着く訳です。それで、田野さんが、東京に居を構え、海外アーティストやグループを招聘するようになり、東京では、派手に(昔の)20000Vなんかで、招聘したアーティストやグループのライブを行い、更に地方への来日ツアーなんかも企画するようになります。私自身も出来る範囲で協力していました。覚えているのは、The HatersとScot Jenerik, Runzelstirn & Gurgelstock (Rudolf Eb.erとDave Philips), Knurl (Alan Bloor)等は、私のマンションに泊めていましたし、他にも対バンしたのは、Bastard Noise, Genocide Organ, Con-Dom, Solid Eye, Damion Romeo (Speculum Fight), Mark Durgan (Putrifier), Spastic Colon, Toy Bizarre, Sudden Infant, Felix Kubin, Princess Dragon Mom等数知らず。 特に、Felix KubinとPrincess Dragon Momは、何と!青山Cayでやり、対バンしました!良い思い出です (この頃はスマホも無かったので、写メは殆ど残っていません。ごめんなさい)。後、ライブで「カセットDJスタイル」でやらなかったことが稀にあり、特に、覚えているのは、Toy Bizarreが来日して、札幌を訪れた時には、メタル・ジャンクとマルチエフェクター等を飛行機でハコまで持って行き、ハコのマイクで、メタル・ジャンクの演奏を直接拾って、ライブを行ったこともありますが、余り満足出来るものにはならなかったです。それは私自身がまだハコの音響システムのことをよく理解していなかったことやスタジオに入っての練習をしていなかったことによると思います。このスタイルは、元Merzbowの水谷聖さんとのコラボ・ライブでもやっていますね。

 そして、その頃(1997年春頃?)に、田野さんから、ノイズ・ミュージックに特化した雑誌を作りたいので、協力して欲しいとの連絡があり、田野さん、吉田くん、JNRの常連のOZさん(この時、確かに居たと思います)、私で集まり、田野さんのアパートで企画会議を開くことになりました。先ず、雑誌名をどうするかで悩み、「分かり易く、他の雑誌/ジンと被らないもの」と言うことで、最終的に「電子雑音(通称「電雑」)」になりました。そうして、内容の区割りやインタビュー、その他諸々の大筋を決めて、原稿が集まった時点で、田野さんが編集長として、発刊に漕ぎ着けます。それが、1997年ですね。創刊号や第2号は、デザイナーもいなかったので、雑誌と言うよりもジンに近い感じの地味なものでしたが、第3号から、知り合いの本職デザイナーの方が協力してくれることになり、見違える程、「雑誌」らしくなりました。そして、その内、記事に載っているアーティストやグループのコンピCDも付けようとなり、一層、内容的に充実してきたと思います。また、田野さんや吉田くんや私には、直接、海外のアーティストやグループやレーベル等と作品の交換ややり取りしているからこそ知り得た情報も沢山あり、結構、ディープな話しや新着情報も聞き出せたのではないかな?と思っています。なので、その頃の若いノイズ・リスナーの皆さんには、大変参考になったのではないでしょうか? 因みに、編集長田野さんのたっての希望で、K2のインタビューしたいと言われ、恥ずかしながら、西新宿の喫茶店で田野さんから直接インタビューを受け、その時の内容は、何号かで掲載されました。

電子雑音1号(左)と2号(右)


電子雑音8号 (表紙はWhitehouse)


 その後、田野さんは、脱サラして、ノイズ/アヴァン・ギャルド専門店「デンザツ・コム」を代々木にオープンし、そこを中心にまたノイズ・ミュージックの啓蒙活動に力を入れていきます。これには、正直、私はビックリしました! 彼の本気度と自分よりも他人(リスナーサイド)のことを考えての行動には、本当に頭が下がる思いでした。それに、その頃はまだ、ネットも一般的ではなかったし、海外とのやり取りも手紙を届くのに1週間は掛かる時代でしたが、元々、SEだった田野さんは早くからネットによる交流を始めていたと思います。また、電雑のことは話す時があるかもしれませんが一旦、ここまでとします。

 それで、この頃に、私自身のレーベル(Kinky Musik Institute)からは、以前には出したことが無かった作品(The Bikini PigsとかU.G.A.S.とかPapa’s MurderとかSpot On Panties)をカセットとして出していきます(詳細はBandcamp [k2music3.bandcamp.com]にアップしてありますので、そちらをご参考にして下さい)。更に、私自身のレーベルからは、AMK(米), Toy Bizarre(仏), Rptort Shoot(日: 本当はRetort Shootでした), D.L. Saving T.X. (米), Exposure Your Eyes(英)なんかの国内外のアーティストやグループのカセット作品をリリースしていました。その一方で、海外のバンドやアーティストとの両A面シングルのシリーズVersus Produkt Series(“Noise Tournament”)を、The Haters, De Fabriek, RLW, Runzelstirn & Gurgelstock, Aube, Smell & Quim, Hands Toと出して行きましたが、当時、国内でプレス出来なかったことや印刷や実際のプレス等について余りにも無知だったと言う理由で、それ以上は出すことが出来ませんでした。

K2 / The Haters “Noise Tournament vol.1” 7-inch EP


K2 /  De Fabriek “Noise Tournament vol.2 “ 7-inch EP



K2 / Runzelstirn & Gurgelstock “Noise Tournament vol. 4” 7-inch EP




K2 / Smell & Quim “Noise Tournament vol. 6” 7-inch EP


 それで、1996年位に、K2のCD “The Rust(錆)”や”Metal Dysplasia”を海外のレーベル(前者はCortical Foundationや後者はCheeses International)と共同で出したりしていました(この内、”The Rust”は2018年になって、アメリカのHospital Productionsがリマスタリングして、2枚組LPとして再発してくれましたし、更にスペシャルな作品として、鉄を使ったヘビー・デューティーなハンドメイド版も作ってくれました。多謝)。ここら辺のK2の作品は、メタル・ジャンクの音と自作楽器Friktor、更にはアナログシンセ等の音を増幅・変調させて録音し、暫く寝かせてから、気合い一発で、カットアップ・ミキシングをして作品を作ってました。当時のアナログのカセットMTRはカットイン/アウトが結構し易かったので、自ずとその方向を極めて行くことになります。

K2 “The Rust” CD (original)



K2 “Metal Dysplasia” CD


 あっそうそう、その前に、ドイツのPraxis Dr. Bearmannより、K2初のLP “Hepatopolitika”を出してもらったのですが、内容は、ハーシュでもラウドでもなく、P16.D4に対するオマージュとして、テープやトイ楽器なども用いたコラージュ作品としました(このLPも2019年に、イタリアの浦島がリマスタリングして再発してくれました)。そんな作品も稀に作っていました。

K2 “Hepatopolitika” LP (original) 



 しかしながら、丁度その頃、体調が思わしくなく、レーベル側に連絡出来なかったら、取り分が送られて来ず、西新宿のクララ・レコードで、自分の分だけ1枚自腹で購入しました。当時は、こんなことは「海外リリースのあるある」でしたね。ファースト・プレスは、全てクリアー盤でクリアースリーブでした。まぁ、その間にも、海外レーベルからカセット作品もボチボチ出していました(詳細はDiscogsを参照して下さい)。海外のディストリビューターとしては、アメリカはRRRecordsで、欧州はArtware(ここを運営していたDonna Klemm姉さんには、新婚旅行でドイツに行った時にお会いしましたが、結構、快活でフレンドリーな方でした。彼女は、その後2008年6月に他界してしまい、大変悲しかったです)と言う感じだったでしようか。割とこの2つは良く利用させてもらいました。それから、1997年になると、何と!今やインダストリアル/テクノイズの老舗レーベルで有名なAnt-Zenから、10”mini-album “Anybody Can’t Catch Up With This”を、また同年、フィンランドの極悪レーベルFreak Animal Recirdsから、K2 & Gruntのコラボ・スプリットLP “Gears And Shafts”も出してもらいました。

K2 “Anybody Can’t Catch Up With This” 10-inch Mini-LP


K2 & Grunt “Gears And Shafts” LP


 その頃、私自身は私生活でちょっとした問題も抱えており、まあ、その為に新築マンションを買って、元パートナーと同棲していたんですが、そいつが「糖質」で、ある日、そいつの妄想で口論になり、灰皿で思いっ切り、頭を殴られて、結局、それで別れたんですが、まぁ、最悪でしたね。取り敢えず、1990年代ほこんな感じで過ごしていました。元パートナーとの確執で、ファックス攻撃は暫く続きましたが、かなり、私自身も精神的に参っていた為、仕事に行けない日も多々ありました。


 今回もあんまりレコードの話しになりませんでしたね。申し訳ないです。この時期はCDがメインになってきましたので、あんまりレコードを買わなかったのかな? しかしながら、多分、西新宿のJNR(今のNEdS)で、結構、1980年前後のNeue Deutsche Welleものを買っていたと思いますが、ここら辺は現在の私の方向性に連続していますので、そこら辺を絡めて、後で書くことにします。続きはまた気が向いたら、、。