今日はミレニウムの『ビギン』の話をしよう。

1968年に発表されたこのアルバムは、
勇み足としかいえない作品である。

今ではカリフォルニア・フォーク・ロックの頂点と認知されているこのアルバムだが、
発表した当時は前衛的というわけの分からない理由から(ロックの精神は前衛なんだけど……)
レコード会社がプロモーションをしなかったために、
まったく商業的な成功をすることができなかった。

今日の評価から考えると、勇み足という表現が適当だろう。

鬼才カート・ベッチャーのコーラスワークの巧みさ、
アレンジの執拗さを聴けば、
カート・ベッチャーの才能がピークに達していたと考えられる。

しかしなんだろう、このドロッとした粘着気質な感触は?
僕には心地よさが微塵も感じられない。

おそらくカート・ベッチャーの怨念じみたコンプレックスが、
この作品を作らせたからではないだろうか?

ミレニウムの前も後も、
カート・ベッチャーはミュージシャンとしての成功を得ていない。
そのため、まるでヤドカリのように、
他のミュージシャンのアレンジやプロデュースをして、
そこに目一杯自我を押し込んで(極めて優れているのだけど)、
顰蹙を買い続けていたのだ。

その上背が低い。

才能があるのに顰蹙を買い背が低いといえば、
僕はすぐにフィル・スペクターを思いだす。
彼もまた作品の成り立ちが怒りとか恨みだったことを考えると、
カート・ベッチャーの集大成がドロッとしているのも頷ける。

仮にカート・ベッチャーがミュージシャンとしてそこそこの成功を収めていれば、
この作品は生まれなかったのかもしれない。
まっ、想像だけど……。

こうしてコンプレックや恨みつらみを見事に昇華させて、
カート・ベッチャーはロック史に残る名作を完成させたのだ。
いずれにしてもそういう極個な感情を仕事に昇華させるのは、
まともな大人のやることではない。
ただしロックをやる人間って、
まともな大人なんていないんだけど。

背が低いというだけで、親を恨み、
父親の頭でスイカ割りをする人間が多い中、
それをロック作品という形で自己の浄化を計ったカート・ベッチャーは偉い!

今日は今からこのジャケットのシンプルさとは裏腹の、
薄気味悪くドロッとした美しい音色に、
僕は耳を傾けようと思う。
スパリゾート井上の魔性の火山