7月に近未来小説「渚にて」の読後感想文を起草し投稿しました。
大体書きたかったことは盛り込みましたが、とある問題提起をする記事を読みまして、もう一度考えてみたくなりました。
自らの意志で希望する終末(安楽死)についてです。
スイスですか。医師が直接行うのは禁じられていますが、医師が処方した致死薬を患者本人が体内に取り込むという流れの「自殺ほう助」は認められています。
患者が治る見込みのない病気を患い、耐え難い苦痛や障害がある場合、それでも患者が健全な判断能力を有する(自分を取り巻くすべての状況を理解した上で、自らの意志で自らの生命の継続を絶つことを願望する)場合は「自殺」が認められます。
自殺はいけない事です。ボクはそれを強く感じます。
事業が失敗したとか、家族を亡くしたとか、失恋したとかは人間本来の力強さにより長い時間を掛けてその苦痛や不安を癒すことが可能です。前述の理由や原因にて自らの人生を終止符を打つのは賛成できません。
しかし、もはや苦痛に耐える事しか残されていない人生、絶望しか見出すことができない人生をいたずらに伸ばす事の意義は見出せません。
ボクも同じように感じます。
ボク自身について語るならば、祖母、実母、実父、末期ガンでした。やはり辛そうでした。自分の事ではないにしろ、まるで自分の事のように実感しそうです。
実父はホスピスにて永眠しました。ホスピスに転院する際に家族が集められ、当時の担当医氏は家族に問いました。
ボクの答えはこうでした。
延命のために苦痛に耐え忍ぶ余生がどれほどの幸福感を患者にもたらすというのか。苦痛を堪えるためのみに生きる(生命を維持する)患者は介護や看病してくれる医療関係者や家族に感謝の気持ちさえも持つ余裕なんてない。
特に家族に対しては悲劇でしかない。入院や手術前はあれほどまでに楽しく幸せに暮らしていた思い出は苦痛や鎮痛剤の副作用によってその人の脳裏から去り、残された苦痛を訴えるゆえに家族に罵声を浴びる。
そして家族は「私たちはここまで尽くしているのにどうして…」という思いから看病疲れで心身を消耗させる。
そんなのは人間らしい終末ではない。われわれが望む終末とは感謝といたわりの心で「病苦」のつらさと「死」の恐怖を乗り越える勇気と覚悟を携えるものなのです。
それならば、延命措置を止めて苦痛の取り払う措置のみ行い。終末の際には「こんな風に終わるのは残念だけど、みんな(家族)のおかげでここまで楽しく過ごせたよ。ありがとう。」という言葉をご家族へ送ることができれば、ご家族も本来的な意味合いでその患者さんを来世へと見送る心持になるのでは…
という旨を述べました。
安楽死と延命治療とでは趣旨や方法論は違いますが「終末をいかに過ごすか」を軸にするならばいくつかの共通点が見出せるのでは?と思い書きました。
もうひとつ貼りたかった記事があるんですが悲惨なので、貼り付けをはばかります。
「私は生きることを諦めた―― “安楽死”を選択した男性、耐え難い激痛の日々 声をあげて泣く妹へ「強く生きて」」でググってください。
冒頭で語った「渚にて」にも極限までに追い詰められた際の事例があります。
これは前述よりも悲惨で残酷です。
放射能にあぶられた後にのたうち廻って死ぬよりも尊厳ある自殺を選んだポールとメアリ。この夫婦は、自殺へと至る状況を理解し納得した上で安楽死を選択します。しかし二人の愛児はどうなるでしょうか。
おそらく、てか絶対にこの子は理解も納得もしない。その上に(たとえどのような理由があろうとも)自殺がどんなことであるかも認識していない。
そして自らが自らに手を下す能力もない。
両父母が自分自身に対して採った選択(or 行動)をこの子に対しても採る以外にはありません。最初に愛児に手を掛け、その後に夫婦は服毒するのです。
自殺という許させざる行為の前に、さらに別の許されざる行為をしなければならないのです。
何らかのシメでもってこのブログを終わろうとしましたが、書き終わるまでに見つけようと思いながら書いてましたができませんでした。
これからも考えていきます。
こんな終わり方でごめんなさい。