読み終わってしばらく経ちますが読書感想文みたいなの書いてみたいです。

この小説を知って以来、内容に興味を持ち是非読んでみたいなって思ってました。

 

あらすじとしては、unhappy end の物語であり、ジャンルとしては future political satire(近未来小説 / satire とは風刺を表す)です。何ひとつ残らない悲惨な終わり方です。

 

渚にて

 

ネヴィル・シュートの著作です。舞台はオーストラリアの最南端地域にある都市メルボルンです。

 

第二次世界大戦終結後まもなく起きた第三次世界戦争。だれもが予想した偶発核戦争。北半球の主要国は破壊されて放射能で汚染され。その放射能がメルボルンに近づいてきます。

 

 

 

・オーストラリア海軍士官のピーター

・妻のメアリー

・米国海軍所属原子力潜水艦艦長のドワイト

・現地(メルボルン)での女友達(この表現が一番適切です)のモイラ

 

が主要登場人物です。

 

 

放射能汚染がメルボルンに刻一刻と迫る中、ピーターと妻のメアリーは小さな愛児と共にいつもと同じ生活を送ります。趣味の家庭造園を楽しみながら。もちろん、大気中の放射能汚染の事は十分知っています。しかし、それまでは今少しの時間がある。だから普段通りの生活を送ろう、と心に決めてる……としか判断できません。

 

そんな中、北半球が破壊され(家族は放射能禍にさらされ)米国から立ち去ることを余儀なくされたドワイトと乗組員は原子力潜水艦にてメルボルンに寄港します。

 

ドワイトはメルボルンで知り合ったピーターとメアリーの友達のモイラと出会います。そして二人は疑似恋愛に陥ります。ドワイトには米国に妻子がいるからです。

 

まるで無辜の善人さんたちのためを思って設定されたかのようなごく普通の毎日が続きます。前期の登場人物4人によって。

 

そんな展開が前半です。そして後半…

 

 

 

 

放射能禍を隅にやったかに思えるような普通の日常の描写の中、薬局におけるピーターの一言が物語をおとぎ話から現実へとシフトさせ、物語は後半へと向かいます。

 

 

「服毒用の毒薬はありますか?」

 

 

この4人のみならずメルボルン市民、最後まで生き残った人々の多くは気付いているのです。そして覚悟を決めているのです。「放射能に被曝し苦しみのたうち回り嘔吐物と排泄物にまみれて死んでいくよりは、少しでも人間らしい死に方をしよう。」と。

 

 

 

そして放射能がメルボルンに到達し、市民に深刻な放射線障害が出てくるに際して、ピーターとメアリーの家族は服毒、ドワイトは米国海軍士官らしい最期を迎えるべくオーストラリア領海の外で希望乗組員と共に潜水艦を沈没させ絶命します。

 

モイラは別れ際にドワイトから聞かされていた沈没予定時刻に合わせ服毒する。

そして全人類は滅亡する、という物語です。

 

 

 

この小説を読み終えた時に、ボクの脳裏に最初に思い浮かんだのは、第三次世界大戦の可能性とか、核戦争の恐怖とか、放射能被曝はいかに苦しいものかとか、そのような事ではありません。

 

このような運命に対峙を余儀なくされた時、人間はいかに立ち向かうか、対処するか、という事です。もはや死ぬしかないのであれば、いかに終末を迎えるかという事でしょう。

 

あくまでも小説という虚構ですから、実際は「もはや助からない」と悟った時点で、人々は狂乱して秩序が乱れ、犯罪が多発し最後の刹那的な享楽に憂き身をやつして滅んでいくでしょう。

 

 

しかし、無辜の人々であればこそ、それなりの終末を迎えるべきだという思いもあります。少なくともこの小説を読んで感銘を受けたボクはそう願いたいです。

 

であるならば、昨日まで普通な日常生活において、悩みや苦痛もほとんどなく生きてきて今日を迎えられたのならば、明日もそうであって欲しいという、最も基本的な願いが叶えられている環境で最期(終末)を迎えられたなら、という気持ちになっていくのではと思います。

 

絶望のうちに迎える狂乱の終末を避けたいと思う気持ちはあると思います。

 

 

さらに、この物語で特筆すべきなのはドワイトとモイラの疑似恋愛です。ドワイトの妻子は米国にいます。「いました」の方がいいかもしれません。核攻撃によって絶対死亡してるでしょう。ドワイトだってそれは分かっているはずです。

 

しかし、本国で自分の目でそれを確認していないドワイトにとって妻子はいまだ健在であり、モイラにも生きている前提で妻子の事を語ります。モイラもそれをすべて理解して上でドワイトに妻子について尋ねます。

 

さらに、「オーストラリア領海外での沈没を(その延長上に)妻子と会いに行くプロセス」だとするドワイトの考えを尊重して、艦内に妻子へのお土産まで届けます。

 

米国の状況を考えればふたりは本格的な恋人同士になったとしても、それを責める人なんていません。しかし節度をもってモイラと接するドワイトはそれを許容することをせず。モイラもその考えを尊重します。

 

この物語で、ドワイトとモイラが親密な関係になることはありませんでした。ただ一度だけドワイトがモイラにしたキスのみです。それだって「異国(オーストラリア)でいろいろと身の回りの世話をしてくれるモイラへの感謝の気持ちの表れ」だとしています。

 

結局、ふたりの関係は、故郷を離れて少しさみしい男と、それに同情していろいろと世話を焼きたがるおせっかい女、という関係でした。でもそれでいいと思います。よかったと思います。読者サイドのボクとしては。

 

普通の男女であり続けたことこそが、この小説にて著者が標榜し、同時に穏やか(であるかのような)人類の終末にわずかながらの花を添える最小限の倫理観と道徳律の表れかと思います。(こんな終末を迎えて今さら倫理観も道徳律もあったもんじゃないですけど。)

 

 

それでも、倫理観と道徳律の高さと(前述した)当たり前で普通で誰もが願う日常生活の享受、それ等によって育まれた価値観の結果が尊厳のある終末の迎え方であり、それをこの小説「渚にて」が教えてくれたのであれば、ボクはいい本読んだ、と思えてきます。

 

 

放射能禍による終末、ボクとしては耐えられない「起こるかもしれない未来」であり、おそらくは平常心ではいられないでしょう。

 

 

でも、「この本」を読んだ後は読む前と比べて、ボクの考え方に(今まで思いつくこともなかった)新しい価値が加わればと思ってます。