反戦平和市民団体様が大好きなものと言えば、それは日本国憲法第九条(以下、九条)ですよね。

 

あまりにも大好きであるがゆえに、九条が持つすばらしさを(適用範囲内である)日本国内のみならず、広く海外まで知らしめようと画策してらっしゃいます。

 

 

その熱心さに関してはボクなんかは当てられっぱなしで、確か、有事立法(戦争法?)が国会で可決された時でしたか、信号交差点の歩道部分に整列して横断幕を持って抗議活動をされてらっしゃるお姿を拝見した際には深く感動をいたしました。

 

 

さて、そのような(そういう人達にとっては)すばらしい条文であるがゆえに、「九条を世界に紹介しよう」ですとか、「九条にノーベル平和賞を」とか言ってる人達ががいらっしゃいます。

 

なかなかご熱心な活動っぷりかとお見受けいたしたいのですが、ちょっと待ってください。ボクはそれは危険な思想、までとはいかないまでも、危険な傾向かと思うんです。

 

 

さてさてどういう事でしょうか。気になりますよね、みなさん。

みなさん、みなさん… … …

 

そうですか~、気になるんですね~

それでは読み解いていきましょうか。

 

 

それなりの思想を国外に出したいと言う事、もしくはその思想についてそれなりの評価をしてもらいたいと思ってるからには、「それは絶対的にいいものだ」と思ってるわけですよね。

 

であるならば、それは、初期の頃(植民地主義時代前)のキリスト教が世界に向けて発信され、徐々に普及していった経緯と同じことだと思うわけなんですよ。

 

そしてそれが世界において植民地主義帝国主義の先駆けになったということに、九条信者さん達は気づいてない、というか、ボクとしては関心を払ってもらいたい訳なんですよね。

 


おそらく言うと思うんですよ、九条信者さん達は。

 

九条は平和的な思想だからそんな事はないと。

 

 

しかし、その九条思想をそう思うからには「それは絶対正しい」という事に確信があるわけですよね。

そうなるとキリスト教を、もっというならば共産主義思想だって全く同じだと思うわけなんですよ。

 

 

キリスト教も、共産主義思想も、最初から暴力主義とか、暴力肯定主義とかと思ってなかったわけなんですよ。

 

 

1)しかし、布教する側が布教される側に対して、その思想を推し進めること自体を絶対的誠意とするのであれば

2)布教される側が、布教する側が満足いくように布教されないとなると

3)実力を持って普及せざるをえないなってくる

 

わけですね。そうしないと布教されないですから。

 

 

そして、何度も申しますように、その思想が絶対性を内包しているのであれば、その布教に対して用いられるメソッドも絶対性を帯びて正当化されるわけなんですね。

 

1)ですから、宗教戦争も、共産主義の拡散の戦争もすべてが正当化され

2)それゆえ布教に関するすべてメソッドも正当化され

3)正当化されちゃいますから何でもありになっちゃいまして

4)その布教や拡散活動は悲惨なものになってくるし

5)その悲惨性も正当化される訳なんです。

 

こういうことには犠牲は付き物だ、なんて慣用句で

 

 

九条信者さん達はその反戦思想による反戦性にとどまっていますから、まだまだボク等の話を聞いてくれます。

 

堂々巡りですけど。

 

 

しかし、いつか、その堂々巡りに辟易した日が来るのなら

それは上記した展開がボク等に降りかからないとは誰も保証できないと思うんです。