神君、お礼に絵を贈る・冨賀寺 | 心のままに

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奥貴山・冨賀寺(ふかじ)・・愛知県新城市中宇利高田46

 

 

1,300年前(飛鳥時代)奈良の大仏造営に尽力した行基により、大宝元年(701)十一面観音像を彫り「来迎院」という小寺を建てたことが始まりといわれています。

南北朝時代に形勢不利になっていた足利尊氏は、ご本尊に開運祈願をしたお陰で勝利を重ね、延元3年(1338)ついに征夷大将軍になり、本堂や塔頭など多くを寄進した。

 

薬医門を潜ると、左にあるのが阿字庭。

 

 

客殿横の門を潜り、池泉式庭園へ。

※池泉式庭園・・江戸時代に発達した日本庭園の一つの様式。

 

 

北方から西方にかけて大小12個の築山があり、庭の面積に対して多くの築山があることがこの庭の特徴。

 

 

上から

本堂、庚申堂、護摩堂、弁財天庭園、水神庭園。

 

 

 

 

 

宇利城主だった近藤家の墓所。

 

遊歩道(かんのんみち)には、西国三十三観音が並んでいます。

 

小さな滝と見頃が近い紫陽花の花々。(6月2日訪問)

 

 

 

 

戦国時代、近くにある宇利城を巡る戦いでは、家康の祖父・松平清康が三河平定の総仕上げとして攻め落としたが、後日家臣に斬られ亡くなってしまった。

その後、広忠(家康の父)は松平家のために竹千代(家康)を人質に出し、その竹千代が織田家にいた頃、冨賀寺から武運長久を祈ったとして竹千代の元に鏡が届けられた。

 

そのお返しとして、竹千代が自ら描いた絵を贈ったようです。

人質として将来的にも心細かった幼い竹千代にとり、武運長久を祈ってくれた冨賀寺は、心の拠り所だったのかも知れません。

幼い竹千代が描き、冨賀寺に贈った絵(ネットから拝借)

何を描いてあるのでしょう、南蛮人のような姿も・・