六花 | 心のままに

心のままに

ゆっくり、のんびり、思い出づくり

何年前だったか、珍しく積雪がありました。

※先日のクリスマスイブにも8年ぶりで10㎝くらい積もりました。

 

だれ?

 

庭の主、丹波立杭焼のタヌキ君でした。(これは別の日)

 

水仙もキルタンサスも雪の冷たさや重みに耐えています。

 

 

近所を一回り、花たちも陽が射すまでの我慢です。

 

 

 

 

目も鼻もないけど、この家の子供(大人)は満足したかな。

 

み吉野の  耳我の嶺に  時なくそ  雪は降りける

間なくそ  雨は降りける  その雪の  時なきがごと

その雨の  間なきがごとく  隈(くま)もおちず

思いつつぞ来し  その山道を

 

             大海人皇子(万葉集)巻1-25

 

<意味>

み吉野の耳我の嶺にはいつも雪が降っていた。絶え間なく雨が降っていた。その雪や雨がいつでも絶え間なく降るように、止む時もない物思いに耽りながらやって来たのだ、その山道を。

 

天智10年(671)の冬、身の危険を感じて近江大津京を出て、吉野の山中に逃れた彼は再び都に戻れるかどうかというよりも、生命を全うできるかさえ分からない不安な日々を過ごしていました。

ほどなく、天智天皇が亡くなると、弘文天皇(大友皇子・・天智天皇の息子)を倒そうと立ち上がり、古代では最大の権力闘争といわれる「壬申の乱」(672年)に繋がって行きます。  

結果は彼が勝利し、この後は律令国家の基礎を築いた天武天皇と持統天皇の時代が始まります。

この歌は、後に苦難の日々を思い出して詠んだもの。

※その後、この吉野の地は天武・持統両天皇にとっての聖地となります。

 

天武天皇(第40代)と持統天皇(第41代)の合葬陵「桧隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)」・・ 奈良県高市郡明日香村野口

ここには天武天皇の遺体を入れた棺桶と持統天皇の骨壺が納められています。

※持統天皇は「喪葬の儀を倹約せよ」という遺言をし、天皇として初めて火葬にされた(703年)

※天皇、皇族以外では、奈良・元興寺の僧「道昭」が最初(700年)