天守と月 | 心のままに

心のままに

ゆっくり、のんびり、思い出づくり

先日の「ほぼ皆既月食」はご覧になりましたか?

次回は65年後だから、私はより月に近い天国から見ることにします。

最近は天体ショーも感動しながら見るだけになってしまいました。

そこで、またトムヤンくんさんから画像を借りてきましたよ。

斎藤道三や織田信長所縁の山城(岐阜城)だからこそ表現できる、威厳を感じ、幻想的とも思える画像は素晴らしいでしょう。

名古屋城では出せない雰囲気があります。

 

 

同じく、三日月、十三夜(2枚)、満月です。

 

 

 

 

先日、保存してある画像の整理をしていたら、こんなのが出てきました。

2014年10月6日の日付がありました。(古いカメラです)

 

この月もたぶん2013年か2014年に写したもので、

空がブルーだから、マジックアワーの時に写したようです。

 

 

海神(わたつみ)の 豊旗雲(とよはたくも)に 入日さし

 

今夜の月夜(つくよ) さやけかりこそ

 

               中大兄皇子 (万葉集) 巻1-15

 

〈意味〉

海神様が大空にかけられた大きな旗のような雲に夕陽が射し込み、とても美しい光景だ。

この夜の月も美しく清々しいだろう。

 

斉明天皇7年(661)、天皇自身が軍を率いて、百済救援の為に朝鮮半島へ向かう途中、立ち寄った播磨国の印南国原(今の明石から加古川辺り)で詠んだ歌。(この歌は万葉集中、一番の秀歌ともいわれる)

※結句の「さやけかりこそ」の読み方には諸説がある。

※(豊)旗雲・・旗がなびいているように空にかかる美しい雲。

 

当時、旗雲は瑞雲と考えられていたので、この時の雲は海神様の威力の表れと思ったようです。

戦に向かうその時、瑞雲に夕陽が射し込み、茜色に染まる荘厳な光景を見て海神様のご加護を確信した一行は、今夜の月のように自分たちの将来に祈りと期待を込めたとも。

 

しかしこの時、斉明天皇は筑紫の地で亡くなり、即位の式も無く皇位を継承した彼は天智2年(663)再び新羅に派兵したのですが、白村江で大敗してしまいました。

その後は防御のために防人を置いたり、水城やいくつもの山城を築いたり、都も近江に移さざるを得なくなってしまいます。

天皇となってからは一首の歌も残していない(残っていない)ことから、彼にとっては心の安らぐ事の無い日々だったのかもしれません。

 

※皇居・豊明殿の障壁画(緞通)の原画(豊幡雲)を依頼された中村岳陵画伯は、この歌をゆっくり鑑賞してイメージを膨らませ、夕空に五彩の雲がたなびく鮮やかな絵を完成されたそうです。