⛩ 櫻田山神社とは?
今回はお笑い芸人の狩野英孝さんのご実家、櫻田山神社について考えますが、凄すぎて
驚きの連続です![]()
仙台藩編纂の「封内風土記」によると、6世紀初頭(古墳時代後期)、武烈天皇崩御後に仕えていた狩野掃部之祐が創建したと伝えられています 。もともと栗駒山の麓に建立され、のちに現在地「桜田の里」に遷座されました。「山から来た神社」という意味で「山神社」と称されるようになりました 。約1500年の歴史を誇り、県内でも有数の古社として知られています。
櫻田山神社 歴史年表
713年(和銅6年)
857年(天安元年)
従五位下の神階を授かる(『三代実録』に記録あり)。
平安時代~中世
陸奥国登米郡の総鎮守として広く崇敬を受ける。
戦国時代
地域の武士団によって再建され、信仰が継承される。
明治4年(1871年)
明治政府による近代社格制度により「郷社」に列格。
明治40年代(1907年頃)
拝殿・本殿が再建され、社殿整備が進む。
昭和以降
狩野家が代々宮司を務め、地域の祭祀・神事を支える。
現在
第39代宮司家の跡継ぎとして、狩野英孝さんが芸能活動のかたわら神社を手伝う姿が注目されている。
ご祭神とご利益
合祀神:応神天皇(誉田別命) 。
ご利益としては 安産・子宝、縁結び、無病息災、商売繁盛、交通安全 に加え、疫病退散にも霊験があるとされています 。
武烈天皇(ぶれつてんのう)-第25代天皇
【在位期間】
約499年~506年頃(推定)
【父】仁賢天皇(にんけんてんのう)
【母】春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)※履中天皇の皇女
【后妃・子】后妃あり(詳細不明)、子どもなし(後継ぎなし)
📜 武烈天皇の特徴と評価
1. 「暴君」としての描写(日本書紀より)
『日本書紀』によれば、武烈天皇は暴虐非道な行いをしたとされており、以下のようなエピソードが記録されています。
妊婦の腹を裂いて胎児を取り出す
人を柱に縛って弓の的にする
家畜や人間を殺すことを楽しんでいた
👉 「悪逆非道」の最も残虐な天皇という印象を与えていますが、これらの記述は後世の正統性を補強するために誇張された可能性もあります。特に「次の継体天皇への政権移譲を正当化するため」だったとも言われています。
2. 子がいなかったことと王統の断絶
武烈天皇には実子がいなかったため、彼の死によって第15代応神天皇から続く「応神系王統」が断絶し、遠縁にあたる継体天皇(越前の豪族出身)が擁立され、王統が再建されました。このとき、政権の中心が奈良から近江・北陸方面に一時的に移ったともされ、王統の大転換期にあたります。
📖 武烈天皇に関する議論
◆ 実在性の議論
一部の歴史学者は「武烈天皇は実在したが、人物像は誇張されている」とした上、一部は「存在自体が架空で、継体天皇擁立のための政治的捏造」と考える学者もいます。
🏯 狩野姓の由来・起源
▶️ 主な読み方:
「かのう」「かの」
地域によって読み方が異なる場合があります。
【起源①】藤原北家の流れをくむ「狩野氏(中世武家・公家)」
🔹 概略
- 平安時代後期~鎌倉時代にかけて、「狩野氏」は藤原北家秀郷流(=藤原秀郷の子孫)を称する家系のひとつとして登場。
- 出自は諸説ありますが、下野(現在の栃木県)や伊豆、遠江などに広がった武士団とされています。
📍由来地
伊豆国狩野郷(現在の静岡県伊豆市)
地名「狩野」にちなむ地名姓です。
🧬 系譜例👇
藤原秀郷 → 藤原千常 → 藤原資行 → 狩野資信 … など(諸説あり)
2️⃣【起源②】文化人の家系 – 狩野派(絵師)
🎨 「狩野派」とは?
室町時代〜江戸時代にかけて活躍した絵師一族。京都や江戸に工房を持ち、幕府の御用絵師として活動。狩野正信(まさのぶ)を祖とし、狩野永徳・狩野探幽など、約400年続いた日本最大の画派を形成。
🔹家系的には
実はこの「絵師・狩野家」も、伊豆国狩野郷に由来する武士の末裔とされ、武家出身の文化人と伝わります。系譜上では、藤原氏の流れを汲む「藤原北家」の末裔とされます。特に「藤原利仁流」の末裔という説が多く見られます。藤原利仁は平安時代中期の武将で、越前・加賀・能登などの地に勢力を持っていました。後に「加納(かのう)」「狩野(かのう)」の地名を名乗り、画家の家系として定着。
3️⃣【起源③】東北などでの神職・土着系統
(※狩野英孝さんの家系)
宮城県栗原市の櫻田山神社(山神社)を守ってきた狩野家も、「狩野掃部之祐」が初代とされる古系の神職。約1500年前(6世紀)に武烈天皇に仕えた家臣が創建者と伝えられ、狩野姓を名乗っていたとされます。この系譜が武家・藤原系からの派生か、土着の別系統かは未詳ですが、非常に古い家系であることは間違いありません。
1500年前⁉️って