「熾火」第16回 | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 
「草薙さんッ!!」
 思わず叫ぶそらに草薙は場違いなほど優しい笑みを向けた。
「樋口さん、災難でしたな。ほう、これはこれは、旦那さんもご一緒ですか」
「えっ……ああ、始めまして。先日から家内がお世話になりまして。ご挨拶に伺わなくてはと思っておりましたが……」
「いやいや、気になさることはない」
 意外な登場と言うならこの男ほど意外な人物もいないだろう。それに加えて場の緊張をまったく無視した草薙の物言いに、喬夫とそらだけでなく全員が呆けざるを得ない。
「草薙さん、どうしてここに?」
「その話は後で。――おい、若造」
 それが誰を指すのか、言葉面だけでは分からない。この場の全員が草薙から見れば若造だからだ。しかし、そらたちに向けたものとは明らかに異質な眼差しは肩からコートを羽織った男に向けられていた。イカリもそれに応えるように薄い笑みを浮かべている。
「何者だ、ジジィ!?」
 イカリの背後に控える男がいきり立つ。しかし、イカリはそれを一睨みで黙らせた。代わりに静かな声で問う。
「……草薙とかいったな。テメェ、こいつらの何だ?」
「おまえには関係ない、と言いたいところだが、それでは話が通らんだろうな。おまえの足元に転がってるその男に訊いてみたらどうだ?」
 イカリが鼻白んだように宮下を見下ろす。
「おい、宮下。説明しろ」
 静かな声に無造作な蹴りの音と「ヒッ!!」という短い悲鳴が重なる。猜疑心の塊のような目を泳がせながら、宮下は草薙の顔を凝視して記憶を探った。
「えっ……その、このジジィは……思い出した!! 夕子の店に来てた客です!!」
「客?」
「はい、そっちの娘と一緒にいました!!」
「それだけか?」
「えっ……はい、それだけですが……」
「役に立たねえな、おめぇ」
 客観的に見れば無体な言い掛かりだが、イカリはまったく意に介さず宮下の脇腹を蹴った。肝臓にでも入ったのか、宮下は聞き苦しい呻き声を上げながら悶絶している。
「で、店の客が何の用だ?」
「……まったく、最近の若い者は他人の話を聞いておらんのか。おまえの足元の蹴鞠の借金は幾らだと訊いている」
「それを訊いてどうする?」
「払うに決まっとるだろう。そこの若い二人に代わってな」
「そんな――」
 そらが息を呑む。隣の喬夫も大きく眼を見開いて、まるで昼飯の支払いでもするかのような気軽さで話す草薙を見やった。二人とも宮下の借金を背負うことに納得などしていない。しかし、それをこの老人に――如何に若い二人が足元にも及ばぬ財力を持っているとしても――支払わせていい理由はない。
「草薙さん、駄目です。それは僕が――」
「お気になさることはない。老い先短い年寄りが大金を持っていてもそれほど有意義な使い方もできませんし、土地も金も持ったまま墓には入れませんのでな」
「しかし、草薙さん、あなたにそんなことをして戴く理由が……」
 草薙は喬夫の顔を正面から見据えて小さく息をついた。
「樋口さん、それで良いのですか? これまで積み重ねてきた信用と努力をこんな奴等に食い物にされても構わないと?」
「それは……」
「それだけではない。貴方には大切な細君がいる。こんな奴等の脅迫に屈して彼女を不幸にしても良いと?」
「しかし――」
 そんなことは分かっている。しかし、現に夕子の身柄が宮下の手にある以上、自分にはどうしようもない。喬夫は思わず草薙に食ってかかりそうになった。
 それを止めたのは腕にそっと添えられた妻の手だった。喬夫はそらの顔を見た。そらは安堵の笑みとぶり返した涙が入り混じった表情で喬夫を見上げていた。
「すみません、草薙さん――」
「なに、ただで差し上げるとは言っていない。立て替えるだけです。後でゆっくり返してくださればそれでいい」
「……あー、泣ける三文芝居はどーでもいいんだけどな」
 三人のやり取りを遮るようにイカリがわざとらしい咳払いをした。いかにも可笑しそうにシニカルに口元を歪めていた。
「それは、この馬鹿の借金を払えて初めて大団円になるんだ。俺はまだ金額を言ってないぜ?」
「そうだったな。若造、幾らだ?」
「一億」
「そんなッ!!」
 そらの安堵は一気に吹き飛んだ。草薙は大げさなため息を吐き出した。
「他人の商売に口を出す気はないが、おまえ、金貸しとしてどうかしているんじゃないか? その男がそんな大金を返せると本当に思っていたのか?」
「余計なお世話だ。世間知らずの年寄りに教えといてやるが、借金には利息ってやつが付く」
「なるほど。元本は大したことはないが、暴利で膨れ上がったということか」
「そういうことだ。ジジィの年金から貯めた程度で払える額じゃない。格好つけて出てきて引っ込みがつかんかもしれんが、老い先短いんだ。家に帰って縁側で茶でも啜ってろ」
 そらはイカリの足元で頭の悪い犬のように辺りを窺っている男を睨んだ。この男はどこまで他人に迷惑をかければ済むのだ。

(……あれっ?)

 しかし、その場の誰も疑問を差し挟まないが、そらはイカリの物言いに違和感を感じていた。それが何なのか、すぐには分からないが。
「仕方なかろうな。分かった、一億払おう」
 草薙は平然と言い放った。イカリの目がスゥッと細くなる。
「……ジジィ、本当に払えるのか?」
「その程度の金額なら今でも動かせる。支払いはどうすればいい?」
「どうするつもりなんだ?」
「小切手ならこの場で切れるが」
「駄目だ。銀行口座を通すとカネの流れが残るし、支払い拒絶されると何かと面倒なんでな。現金を用意しろ」
「無茶なことを言うな。頭取を叩き起こしても用意できる金額じゃない」
「じゃあ、朝まで待つんだな」
「それで良ければ最初からここへは来ない。そこの蹴鞠が押さえてる母堂の身柄を開放させなければならん」
「俺が知るか、そんなこと」
 イカリの口調に苛立ちが混じる。そらは改めて背筋に冷たいものが走るのを感じた。目の前の男は自らが言ったように、真っ当な理屈など通じない世界の住人なのだ。 
「ジジィ、自分がそんなこと言える立場だと思ってんのか? 宮下の借金を全部肩代わりするって言うから話を聞いてやってるんだ。それなのに、いざ払うってことになると好き勝手なことばかり言いやがる。払う気がないなら最初からしゃしゃり出てくるな」
「誰も払わないとは言ってないだろう」
「俺が言うとおりにしないなら同じことだ」
(やっぱりおかしい)
 そらはイカリの理屈の不自然さに気づいた。
 イカリは宮下に「ここに来ればカネを払う」と言われてこの保税倉庫にやってきた。そして、そこで支払いの手段が現金でも小切手でも品物でもなく、借金を肩代わりさせる生贄を差し出すことであると説明した。イカリはそれを受け入れて喬夫に書類へのサインを迫った。
 もし、それがイカリにとって本来あるべき現金での返済に対する代案なら、草薙の申し出を断る理由はどこにもない。その場で現金が手に入らない点ではまったく同じだからだ。
 小切手にしてもそうだ。そらには小切手のことはよく分からないが、イカリたちくらいになれば銀行に足跡を残すことなく換金するくらいのことは可能なはずだ。何なら宮下の口座を使えばいい。草薙は自分たちのためにやっていることでも現実に立て替えるのは宮下の借金だし、そうしても何の問題はない。
 自分にすら思いつくことを高利貸しのイカリが思いつかないわけはない。となれば、イカリの言動は不自然だ。草薙の介入を嫌っているようにしか見えない。
「あー、てめぇの言い分はよく分かった。俺たちは最初に立ち戻って、そちらの若いお二人さんと話をさせてもらうよ」
「そうか。では、その書類には私がサインしよう」
 草薙はいかにも「仕方ないな」という口調で言った。しかし、振り返ったそらは草薙の厳しい顔立ちに見たことのない類の笑みが浮かぶのを見た。喩えて言うなら延々と続く打ち合いの末にようやく見つけた隙に渾身の一撃を見舞う会心の笑み。
「……何でテメェが?」
「私がこの二人の借金を肩代わりすると言っただろう。それなら、私が書類とやらにサインしたほうが話が早い。違うか?」
「あ、いや……」
「それとも何だ? サインするのが樋口さんでなくてはならん理由でもあるのか?」
 イカリの三白眼が草薙を射抜こうとする。しかし、草薙は意にも介さない。それどころか浮かぶ笑みは更に深いものになっていく。
「保険金詐欺を働くときに代理店の人間を抱き込んでおけば何かと便利だ。支払いを審査するのは本体の会社だが、そこには代理店の判断も少なからず影響する。いや、それよりも少々怪しい案件でも通せる方がメリットは大きいかもしれん。そこの蹴鞠みたいに頻繁におかしな支払い請求をしているとブラックリストに乗ってしまうが、それだってどうにでも誤魔化せてしまうからな。――ふん、考えたものだ」
 やはりそういうことか。そらはイカリを睨んだ。喬夫はその目論見に薄々感づいていてさほど意外な顔はしていないが、その分だけ怒りに顔を紅潮させている。
 ふと、その場に携帯電話の着信が鳴り響いた。草薙のものだ。
「出ても構わんかな?」
 そう言いつつ、返事を待たずに携帯電話を取り出す。
「私だ。――ああ、そうか。分かった。宮下収はここにいるよ。臨海工業団地の第7保税倉庫。表に私の車が停まっているからすぐに分かるはずだ。――そうしてくれ。待っとるよ、警部」
 最後の”警部”を草薙は殊更大きな声で言った。電話を切るとそらに笑みを向ける。
「母堂が警察に保護されたそうです。神原興業名義の賃貸マンションに監禁されていたらしいですが」
 事の成り行きを呆然と見つめるしかない宮下の顔に悔しそうな表情が浮かぶ。しかし、それも腹立ちまぎれの蹴りの前に苦悶に歪むしかなかった。
「……テメェ、何者だ?」
 イカリの声に初めて震えが混じった。
「やっぱり他人の話を聞いておらんのだな。彼女の母堂の店の客だとそこの蹴鞠が言っただろう。ところで若造、ここから先は注意して言葉を吐いたほうがいい。内容次第では営利目的での略取、及び監禁罪の事後従犯だ。いや、むしろ教唆犯かな?」
 そらにはその違いはよく分からないが、いずれにしても、この状況でイカリが夕子の拉致監禁に関わっていないと考える者など一人もいないだろう。 
「……どうしろって言うんだ?」
「俺が知るか、そんなこと」
 イカリの台詞を草薙はそのまま投げ返した。そして、小さく肩をすくめる。
「当初の予定通り、すべては宮下の仕業とするのが順当な落としどころだろう。マンションの名義はおまえのところでも、宮下の不動産屋で取り扱った物件だから鍵を持っていても不自然ではないしな」
「俺たちがコイツに貸した金はどうなる?」
「営利誘拐だから実刑は免れまい。出所後に東南アジア辺りに売り飛ばすしかなかろう」
「こんな奴の内臓が売れるとでも?」
「刑務所に入れば、粗食と規則正しい生活で多少はマシになるだろうよ」
 当たり前のような草薙の物言いに、さすがにそらと喬夫もギョッとした視線を向けた。宮下はすでに恐怖で言葉を発することができない。
「……ふん」
 イカリは不満そうに鼻を鳴らした。しかし、その目は忙しなく考えを巡らせている。計画の要である夕子の身柄を取り戻された今、考えるべきは誰を生贄にして被害を最小限に抑えるかしかない。そして、草薙の提案以上のものはなかった。
「まあ、いい。今日のところは引いてやる。しかし、このことは忘れないからな」
「ふん、そんなに出掛けの駄賃がないのが我慢ならんか。仕方ないな。若造、一ついいことを教えてやろう」
「何だ、ジジィ?」
「おまえたち、県警生活安全課の課長補佐を飼っているだろう?」
 イカリは返事をしない。しかし、否定もしない。
「課長がキャリアの渡り鳥な上に昼行灯だから好き放題やっているようだが、今度の人事異動で本部長が動く」
「それなら知ってる。何が”いいこと”だ?」
「話は最後まで聞け。おまえたちがそうやって泰然と構えていられるのは、県警の上層部が自分たちのときにスキャンダルが表沙汰になるのを嫌って、おまえたちのイヌを野放しにしていたからだ。しかし、今度の本部長はちょっと違うらしいぞ。前にいたところでも同じように暴力団の饗応を受けてた四課長のクビを飛ばしている。実際の話、着任もまだだというのにすでに監察が動いているらしい。巻き添えを喰わんうちに手を切ったほうがいいんじゃないのか?」
「……ジジィ、何故、そんなことを知ってる?」
「警察道場なんかに出入りしていると、いろんな噂話を聞く機会があるんだよ」
 イカリの目が疑わしそうに細まる。しかし、それはすぐに気色悪いほど友愛に満ちた笑みに変わった。芝居がかった仕草で大きく手を広げる。
「いやぁ、あんたたちも災難だったな。このバカのせいでよッ!!」
 イカリがこれまでで1番力いっぱいに宮下を蹴った。呻き声をあげながら宮下がイカリを見上げる。その表情には夕子の店で見せた傲岸さも、そらたちを陥れようとしたときの小賢しさもない。そこにいるのは自らが生贄にされることに気づいた哀れな中年男でしかなかった。
「イカリさん、私を見捨てるっていうんですかッ?」
「見捨てるも何も、俺たちはおまえに金を貸しているだけだろうが。仲間呼ばわりは迷惑だ」
「そんな……」
「断っとくが、警察の取り調べで余計なことを言ったらどうなるか分かっているだろうな。イノハラのことを知らないわけじゃないだろ?」
「ヒッ!!」
 宮下の短い悲鳴。そらたちに脅しの意味は分からないが、草薙だけは事情を知っているような顔をしていた。3年前に猪原健二という名の暴力団員がある麻薬取引を巡って警察に自首したが、その翌日に留置場のドアノブにタオルを巻いて首を吊った事件は、当時のニュースで大きく取り上げられていた――口を封じられたのだという実しやかな噂と共に。
「警察が着いたようだな」
 草薙がポツリと言った。そらは耳を澄ました。遠くからパトカーのサイレンが近づいてくる。イカリはもう一度疎ましそうに宮下を一睨みして踵を返した。
 行かせていいのか、とそらは思ったが、呼び止めるだけの気力も勇気もない。今はただ、嵐が何とか自分たちを薙ぎ倒すことなく通り過ぎてくれたのを喜ぶことしかできなかった。
「お二人とも、警察の事情聴取では話を合わせていただけると助かります。憤りはあるでしょうが、ああいう手合いを追い詰めると何かと面倒なことになりますのでね」
 草薙は申し訳なさそうに言った。喬夫が了解したというようにうなずく。
 保税倉庫の扉が重々しい音を立てて開いた。外に停まるパトカーのヘッドライトが差し込み、そらは思わず目を背けた。
「師匠、どちらにいらっしゃいますかっ!?」
「ここだよ、納富警部。どうでもいいが、道場の外で師匠と呼ぶなと言ってるだろう」
 張りのある大声に草薙が答える。駆け寄ってきたのはそらが警察道場を訪ねたときに草薙と対峙していた大男の剣士だった。
 草薙は手短にその場で起きたことを説明して、地面にへたり込んだままで放心する宮下収を指し示した。納富警部は部下に矢継ぎ早に指示を出し、部下は逮捕状を突きつけると容赦ない手つきで宮下を引っ立てて行った。
「母堂の容態は?」
「幾分、衰弱は見られますが命に別状はありません。現在は市民病院に収容されて手当てを」
「そうか」
 草薙はそらと喬夫を被害者の娘とその夫だと説明し、病院に案内するように頼んだ。納富警部は人の良さそうな笑みを浮かべて労いの言葉を口にすると、近くにいた制服警官に2人を送り届けるように命じた。
「あの……どうもありがとうございました」
 パトカーに案内されながら、そらはそれだけをようやく口にした。
「礼には及びません。こんなつまらないことで、母堂の美味い料理が食べられなくなるのが我慢ならなかっただけですからな」
「そんな……」
「ああ、そうそう。さっき、私が警察の内部情報を漏らしたことは内密に。私は公僕ではないので法には触れませんが、あの男にバレると煩いのでね」
 納富警部を煩わしそうに見ながら悪戯っぽく舌先を出す草薙に、そらはようやく泣き笑いのような笑みを向けた。