博多駅のホームに降り立って思いっきり伸びをする。何時間も新幹線の狭苦しいシートに押し込められてたおかげで首がものすごい音を立てる。
「……なあ、永」
俺が言うと、向坂永一――永ちゃんがこっちを見た。
灰色のダッフルコートを羽織って使い込んだ感じのボストンバッグを担いだ永ちゃんは、見方によっては家出少年に見えなくもない。それにしてはやたら堂々としているが。
「どうした、志村?」
「九州ってのは南国じゃなかったか? どうしてこんなに寒いんだよ」
「九州だって日本だ。冬は寒いさ。それに福岡は日本海側だからな」
「にしても、こんなに冷えなくってもいいだろ。雪が降ったっておかしくねえよ」
吐く息は白くて、ホームに吹き込んでくる風は身を切るように冷たい。目隠しをされて連れてこられてたら、札幌と言われても信じたかもしれない。
永ちゃんもホームから見える鉛色の空を眺めて、小さなため息をついた。
「だから、着いてこなくていいって言ったろう」
「永が一人で道に迷ったらどうするんだよ。こんな見知らぬ土地でさ」
「俺にだって目と耳と口がある。人に聞けばそれでいい」
「どーして、そーゆーつれないこと言うかね、この人は。――って、ちょっと待てよ!!」
永ちゃんはバッグを担ぐと、ぶっきらぼうに「行くぞ」と言った。
初めて来たとは思えない迷いのない足取りで、永ちゃんは改札のほうに歩いていく。もっとも、それはいつだってそうだ。この一つ年上なだけの同級生が俺の前で迷いとか後悔を見せることは滅多にない。
改札を抜けてコンコースに出た。特別にそれっぽいものでもあるのかと思ったけど、JRの駅の無機質な造りはどこに行っても同じだ。観光シーズンでもない今の季節、午後は人もまばらだ。
「それで? どこに行くんだっけ?」
俺は永ちゃんのメモとJTBの旅程表を勝手にコピーして作った”旅のしおり”を開いた。
予定では二泊三日の旅。行きと帰りの新幹線の切符とホテルの宿泊チケットだけ取ってある。旅程表といっても別に予定が書いてあるわけじゃない。旅行会社としても作らないわけにいかないから作ってみた。そんな感じだ。
「そうだな。小腹も空いたし、とりあえず何か食おう。四時にはここで法律事務所の人と落ち合うことになってる」
「オッケー。あ、せっかくだから豚骨ラーメンにしようぜ。本場だしさ」
俺はしおりの代わりに”るるぶ九州”を取り出した。行きたいラーメン屋のページはあらかじめ折ってある。
永ちゃんは何か言いたそうに俺の顔を見たけど、何も言わずにページに視線を落とした。
事の起こりは一週間ほど前だ。
「博多に行くって、ひょっとして卒業旅行?」
ちょっと出かけてくる、という永ちゃんからようやく行先を聞き出して、俺は思わず聞き返していた。
卒業まであと少し。進学が決まった永ちゃんは学校に行くことも、行く必要もほとんどない。だから、卒業式の前にちょっと旅行にでも行くのかと思ったのだ。
「そんな洒落たものじゃない」
「じゃあ、なんだよ?」
「野暮用さ。うちの祖母さんの兄が福岡にいるんだが、その人が亡くなってな。遺産は寄付することになってるらしいんだが、遺言状を書いてなかった。そうなると故人の生前の意志のとおりにやるにしても、相続人が放棄の書類にハンコをつかなきゃならない。ところがその爺さん、ずっと独身だったもんで親類縁者はうちの祖母さんくらいしかいないんだ」
「いないんだって、永の祖母ちゃんだって――」
「まあ、そうなんだけどな」
永ちゃんの祖母さんは去年の夏、暑さの盛りの頃に亡くなってる。
「そうなると相続人は俺の母親ってことになる。法律のことはよく分からんが、代襲相続ってやつらしい」
それだけ聞けば、何となく話は読める。
「まさか、永のお袋さん、印鑑を押すだけの為に九州まで行くのが嫌なんじゃねえの?」
「……そのまさかだ」
永ちゃんが大げさなため息をつく。
ちょっと事情があって、俺も永ちゃんの母親の人柄ってやつはよく知ってる。女性としては(とても同級生の母親とは思えないほど)魅力的な人だけど、世の義理事なんかはまったく眼中に入っていない。入れたがらないが正解かもしれないが。
遺産が自分の懐に入るというなら話も違うんだろう。が、永ちゃんの話では祖母さんの兄さんは郷土史の研究家で、遺産というのも文化的な価値はあるけど金銭的な価値はほとんどないという資料の類らしい。そりゃ、行かないだろうな。
「へえー、じゃあ、一人旅なのか?」
「ああ。今から旅行会社に行って、一人分はキャンセルしてこなきゃならない」
「えっ、チケットあるのかよ?」
「最初はいっしょに行くつもりだったからな。それがどうした?」
俺の中の計算機が手持ちのカネのカウントを始めた。このところ、大きな出費がなかったので余裕はかなりある。ついでにカレンダーも確認した。予定は何も入ってない。
「なあ、そのチケット、俺に譲らない?」
「――で、永?」
俺が言うと、永ちゃんはジロリとこっちを見た。
「なんだ?」
「法律事務所の人は?」
「四時に博多口の出口って話だったんだがな」
永ちゃんは腕時計に目をやった。
この時代遅れの堅物は恐ろしいことに携帯電話を持っていない。昔は持っていたけど、何かのときになくして以来、持たなくなってしまったのだ。別に困るようなこともないし、必要なときは誰かから借りれば済むと平然と言うので、俺も持てというのをやめてしまった。
その誰かの筆頭は俺だったりする。
「間違いねえの?」
「ああ。――しかし、おかしいな」
おかしいなじゃねえよ。
声に出さずに呟いた。長年の付き合いで少しは分かってきたけど、永ちゃんも決してパーフェクトじゃない。ただ、しくじったときに何事もなかったようにすっとぼける技術はかなりのものだ。ときどき、本気でコンコンと説教してやろうかと思うことがある。
出来はしないけど。
俺はタバコの吸殻を手に持ってたコーヒーの空き缶に突っ込んだ。
「誰かに聞いてみたほうがいいんじゃねえの?」
「それがいいかもな。ちょっと待っててくれ」
永ちゃんは腰掛けていたベンチから立ち上がると、行き交う通行人の中から声をかける相手を物色しはじめた。やがて相手が決まったのか、コンコースの真ん中向かって歩き出す。
永ちゃんが近寄っていく先を見て俺は目を疑った。背が高い若い女だったからだ。
大勢の通行人の中から永ちゃんがその女を選んだ理由は一つしかなかった。ブレザーとチェックのプリーツスカートという高校生らしい格好をしている、つまり自分と同年代の通行人がその女しかいなかったからだ。
しかし、この鈍感男はそれが相手から見ればナンパにしか見えないことに、まるで気づいていなかった。
「あの、すいません――」
「はい?」
女が足を止めて聞き返す。よく通るハスキーな声。セミロングの黒髪とはっきりした目鼻立ちが目を惹く。つり気味の目許がちょっと性格キツそうにも見えるけど、都会だったら100メートルも歩かないうちにスカウトが声をかけるに違いなかった。
「博多口ってこっちで間違いないですか?」
永ちゃんが俺が待ってるほうを指す。
この後の展開を想像して、俺は思わず首をすくめそうになった。
男の俺が言うのもなんだけど、永ちゃんのルックスは決して悪くない。でも、こういうところで一発で女心をつかめるレベルには届いてない。第一、奴はナンパで一番やってはいけない表情――真面目くさった顔をしている。
そっけなく答えを返されるか、ツンと無視されるか。まさか、罵声を浴びせられたり引っぱたかれたりはしないだろうが……。
反応はどれでもなかった。
「ここは筑紫口。博多口はあっち」
女は笑みを浮かべながら駅の建物の中を指差した。博多駅には両側に出口がある。反対側ってことだろう。
「違うんですか?」
「ここの表示って不親切なんよね。博多口の手前に筑紫口の表示が出とうし。あっちって矢印は出とうけど、そがんと地元の人にしか分からんもんね」
「はあ、そうですか……」
「だから言っただろ。間違いないのかって」
俺は二人に近寄った。女はほんのちょっと怪訝そうな顔をしただけで、すぐに俺たちが連れなのを理解した。
「あんたたち、こっちの人じゃなかろ?」
女はニッコリと笑う。なんと言うか、見た目と違って警戒心の薄い女だな。
「旅行?」
「そんなところかな。ありがとう、助かったよ」
「ううん、別に。じゃあね」
女は小さく手を振りながら歩いていく。俺も手を振った。驚いたことに永ちゃんまでつられて手を振っていた。
後姿が見えなくなるまで見送って、俺は永ちゃんに向き直った。
「……えいー?」
「仕方ないだろ。不慣れな土地なんだ、少しくらい間違うさ」
「そうじゃなくて。どうしてあの女だったんだ?」
「どうしてって……パッと見て、一番親切そうに見えたから、かな」
「あれが?」
いや、さっきの女が不親切そうだと言ってるわけじゃない。でも、そういう基準で選ぶんだったら女子高生は最初に選択肢から外れるだろう。
「俺はてっきり、永ちゃんが博多妻のスカウトに走ったかと思ったよ」
「バカなこと言ってるなよ。――行くぞ」
永ちゃんはいつも以上にぶっきらぼうに言った。