小説における挿絵考 | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 
途轍もなくブーム(というか話題)に乗り遅れていて恐縮なのですが。
 
去年、太宰治の「人間失格」が新装版で出版された際、表紙を「DEATH NOTE」の小畑健が手がけたおかげで中高生を中心に話題を呼んで、古典文学としては異例の販売数(発売から1ヶ月半で75,000部)だったんだそうで。
 
出版社(もちろん集英社)の読みが見事に当たったわけで関係者は大喜びしたのでしょうが、一人の小説読みとしては、素直に喜べないお話なのですよね。話題に乗った中高生も買った以上は小説を読んだと思いたいのですが、表紙をコレクションに加えただけの小畑ファンだって少なからずいたはずだからです。
 
挿絵や表紙などの「小説の補足としてのイラストレーション」の存在を頭ごなしに否定するつもりはないのですよ。
自分の本棚を見ても、スペンサー・シリーズだと真ん中横書きのタイトルを上下に辰巳四郎のイラストが挟むというスタイルが確立されてますし、書店に並ぶものも内容を暗示するようなイラストや写真を表紙に使うのはごく普通のことだからです。
しかし、それはあくまでも小説の従たる部分であって、それが売り物になるというのは理屈が違う気がしてならないのですよね……。
 
挿絵は小説にとって大きなメリットとデメリットを併せ持っています。
メリットとしては「書き手と読み手のイメージの乖離を防ぐことができる」というのが挙げられると思います。
以前、わたしが書いていた小説「テネシーワルツ」の一人称主人公・村上恭吾について、真名さんから「彼のビジュアル・イメージに哀川翔が入っている」というコメントを戴いて眩暈がしそうになったことがあるのですが、挿絵でも写真でも彼の外見をイメージさせるものを挿し込んでおけばこういう齟齬は発生しなかったはずです。(ちなみにその後の作品で登場する村上氏はペ・ヨンジュンに似ているということで統一されています)
言葉をどれだけ費やしたところで、視覚的なイメージを完全に伝えることはできません。仮にできたとしても、そのあまりの語句の多さは物語を停滞させてしまいます。筒井康隆がエッセイで「マンガの1ページは小説の15ページに匹敵する情報量がある」と述べたことがあるのですが――数値的な根拠は不明ですが――挿絵の存在には書き手がビジュアライズしたい要素を端的に読者に伝えるという効果があります。実際、菊池秀行の「魔界都市ブルース」の主人公、メフィストを末弥純のイラスト抜きに文章だけで描くことは困難です。
 
ただし、これは同時にデメリットでもあります。読者が自分で登場人物を想像する楽しみを奪っていることに他ならないからです。
小説はあらゆる芸術表現の中で唯一、読者によって読まれて初めて完結するジャンルなのですが、そのときに読者は自分の中にあるさまざまな要素を読んでいる文章の求めに従って寄せ集めて、自分の中で物語を構成します。
逆にいえばそうされるまでは小説はただの文字の羅列でしかないのですが、故に小説はとても個人的な芸術です。読み手の中で育まれた物語は他の誰とも共有できないからです。そこが誰が見ても同じものであるマンガや映画、絵画、舞踏、音楽などの視覚・聴覚的な芸術と決定的に異なります。
しかし、挿絵によって強制的にイメージを固定してしまえば、その部分においては読者の自由は失われてしまうのです。
 
真名さんが描いたイメージは確かにわたしの中にある村上像とは違いますが、しかし、彼が哀川翔に似ていてはいけない理由はどこにもありません。
彼を語られる側に回したときにとんでもない(笑)乖離が生じるのは事実ですが、それは挿絵の必要性を訴えるものではなく、単に一人称の視点人物の外見をどう処理するか、あるいは小説で人物の外見はどの程度まで語られるべきか、という技術論の話なのです。
 
結局のところ、これは個人的な許容の尺度の問題でしかないのですが(中には挿絵があったほうがストーリーに集中できて良いという人もいらっしゃるからです)一つだけハードルを設けておく必要があるとするなら、それは書き手の側が挿絵に寄りかかってはならない、ということでしょうか。
稀に文章では込み入りすぎて分かりにくい部分を挿絵(というか図解)にしてしまうケースを見かけることがありますが、こういうのは基本的にダメでしょう。小説の中で”文章で”語れないようなことを書くべきではありません。書くのなら持てる表現力を駆使して文章で書くべきです。(実はこれが村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」にあるのです。他にもいくつか例を知ってます)
しかし、真に許されないのは最初から挿絵の表現力に依存して、文章中でちゃんと描写が成立してないケースですね。
挿絵はあくまで付属品です。従って「なければないで別に困らない」ものでなくてはなりません。文章の部分だけを読んでも充分に楽しめるものでなくてはならないし、読者の中で物語を生み出せるものでなくてはならないのです。
 
ええ、これは主にライトノヴェルのことを言っているのですけどね。
 
人間失格 (集英社文庫)/太宰 治

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とか言いながら、わたし自身は創作物とは別の記事に作中で登場する場所やアイテムなどの写真を載せて、あまつさえ説明記事まで書いておりますが。
一人称ゆえに作中でウダウダと解説できないことや、遠隔地の方々に舞台となった街の実際の様子を見て戴きたいなと思って「欄外の脚注」くらいのつもりでやってることなのですが、今回の記事を書きながら「ひょっとして邪魔になってるんじゃないだろうか」とも思いました。
実際のところ、どうなのか。よろしければご意見をお聞かせ下さい。