ところが、いつまでたっても何も起こらなかった。そっと目を開けると、唇に触れていた恭吾の指が離れた。
次の瞬間、恭吾はあたしの鼻をつねりあげた。
「――んぐっ!!」
「悪ふざけにしては、度を越してるんじゃないのか?」
思いっきり首を振って恭吾の指先から逃れた。鼻先が熱い。ほんのちょっとのことなのに、呼吸が止まってしまっていたように息苦しかった。
鼻を押さえて、恭吾を睨みつけた。
「ひっどーい、乙女の鼻をなんだと思ってんの!?」
「本当の乙女は安っぽい性悪女みたいに、タオル一枚で迫ってきたりしないよ」
恭吾はニコニコと笑っている。でも、目だけは笑っていなかった。悪戯した子供を叱る小学校の先生のような「しょうがないな、まったく」という表情。
「悪ふざけじゃないよ。あたし、ホントに恭吾のこと――」
言葉を遮るように、恭吾の指があたしの唇に触れた。
恭吾は真顔に戻っていた。
「すまなかった」
「……えっ?」
「由真が俺のことをそんなふうに思ってくれてると気づいてたら、今日みたいな紛い物のデートに誘ったりしなかったよ」
「紛い物って――今、由真って言った?」
恭吾は小さくうなずいた。やっと名前で呼ばれたことが、あたしの胸の中に不思議な熱のようなものを残した。
ふと、自分がどれくらいみっともない真似をしているのかに気づいた。他人の恋人を寝取ろうとする、まさに恭吾の言うとおりの”性悪女”だ。鼻の痛みを忘れてしまうほど顔が真っ赤になるのを感じた。
「……あの、その……ごめんなさい」
「由真が謝ることじゃない。今日一日、恋人気分で付き合ってくれるように頼んだのは俺だ。それが思ったよりも上手くいきすぎて、ちょっと現実と作り事の境目がわからなくなっただけさ」
「そんな、作り事なんかじゃないよ!!」
恭吾は反論せずに、ジッとあたしの顔を見詰めているだけだった。優しく見守っているのに、相手との距離が縮まることを拒絶するような遠い眼差し。
デジャヴュに似た何かがあたしの脳裏をよぎった。それが何なのかはすぐにわかった。
恭吾の眼差しは、彼がいつも真奈に向けているものとまるで同じだった。
何かにつけて突っかかる彼女に面倒くさそうな仏頂面を向けながら、気づかれないところではさりげなく注がれている。なのに、それは真奈が振り返ると、手を開いたときの握り拳のように一瞬で消え去ってしまう。自分に何かを許さないような光を、恭吾はいつもその目に湛えていた。
ようやく、自分を苛んでいた後ろめたさの正体に気づいた。
あたしは知っていたのだ。この人は口ではなんと言おうと真奈のことが好きなんだと。
それは男女の恋愛感情とは違うものなのかもしれない。でも、この人の心の中にはあのガサツで意地っ張りで、口が悪くて、服のセンスが悪くて、オトコの趣味も悪くて、それでもどこまでも強くて優しいあたしのステキな親友が住み着いている。
そんな恭吾の心が欲しいと思ったことが、たまらなく後ろめたかったのだ。
脱衣室に戻って身だしなみを整えた。
メルセデスから持ってきていたマリノアの袋から、いつも着ているようなフラワープリントのワンピースを引っ張り出した。メイクはしなかったけど薄くグロスだけは塗った。もう一度ドライヤーを当てて髪を乾かした。セットしようもない短さだけど、丁寧に梳かしてみると意外と似合っていることに気づいた。
恭吾もその間に服を着ていた。備え付けのポットで紅茶を淹れている。あたしが出てきたのに気づくと、振り返って「飲むか?」と訊いた。あたしは「ミルクとお砂糖山盛りで」と答えた。
「やっぱり、そういう格好のほうが似合うな」
恭吾は両手に皿に載せたティーカップを持って、ソファに戻ってきた。
「そうかなあ。ギャル服も意外といけてたと思うんだけど」
「あれも悪くはなかったけどな。スタイルが良いから何でも似合うのさ」
「さっきのバスタオルも?」
気恥ずかしさがどうしても偽悪的な言い方をさせた。言ってしまってからかなり後悔した。恭吾は鼻先で小さく笑った。
「確かに十八歳にしてはなかなかのモノだった。ただ、惜しむらくはその前にバッチリ中身を見ちゃってたからな」
「……何のこと?」
「気づいてなかったのか。あの姿見、ハーフミラーになってるんだよ。だから風呂の灯りをつけてこっちを消すと、中の様子が丸見えなんだ」
恭吾は壁に埋め込まれている大きな姿見を指した。言うとおり、その壁の向こうはバスルームだ。
「嘘でしょ?」
「由真って身体洗うとき、足先から洗うんだな」
ボソリと言われた一言があたしの後頭部をぶん殴った。
確かにあたしは爪先から洗う。最初に身体の一番下を洗うのが順番的に間違ってることはわかってるけど、子供のときからのクセなのだ。
生まれて始めて、血の気が引いていく音というのを聞いたような気がした。
テーブルのリモコンをひったくって部屋の灯りを落とした。そのままバスルームに駆け込んで灯りをつける。ドスドスと床を踏み抜かんばかりの足音を立てて部屋に戻った。心臓がさっきとは違う意味でバクバクと音を立てている。
姿見は、姿見のままだった。
振り返ると恭吾はソファの上で声を殺していた。顔を伏せているのと暗いのでどんな表情かはわからないけど、肩が小刻みに震えている。
ベッドの周りにあったクッションを拾い上げて、恭吾に力いっぱい投げつけた。
「最低っ!!」
「……いや、まさか、信じるとは思わなかった……」
恭吾の声は笑いに震えていた。灯りをつけると目尻に涙が浮かんでいるのが見えた。
憤然と腰を下ろして紅茶を飲んだ。恭吾を横目で睨んだ。まだドキドキが収まらない。怒りと恥ずかしさで顔が熱い。
「そこまで笑わなくてもいいじゃない。ホント、恭吾って性格悪いよね」
「その台詞、熨斗をつけて返すよ」
それからしばらく、二人で取り留めのない話をした。話しているのはほとんどあたしで、恭吾はそれをずっと聞いていてくれた。大名にあるモデル事務所で裏方のアルバイトを始めた話。そこのモデルさんに誘われて数年ぶりに剣道を始めた話。大学のオープン・キャンパスに行って在校生にナンパされた話。その他、高校三年生の日常のどうでもいいような話。
ふと思い出して、恭吾に向き直った。
「そう言えば、どうして恭吾があたしのお風呂のクセ、知ってたの?」
「真奈から聞いたんだ。いつだったか、雑談の一部だったような気がするが。誰かが言ってたが、人間ってのはどうでもいいことはよく覚えてるもんだな」
「ホントに? 実はこっそり覗いてたんじゃないの?」
「かもしれんな」
「自白したな。真奈に告げ口してやろうっと」
「何て?」
「あたしが運河に突き落とされて散々な目にあったのに、恭吾ってばそんなあたしのお風呂を覗いてたんだよって」
「そいつは困ったな。司法取引は受け付けてくれないのか?」
「そうだなあ。じゃあ、あたしの質問に答えて。一つだけでいいから」
「いいよ。何が訊きたい?」
言ってはみたものの、特に何か質問を考えてのことじゃなかった。
自分のこと――というか、自分が知りたいことは特にない。むしろ、あたしにはこの人のことを知ったころからずっと抱えている、ある疑問があった。
今なら答えてくれるかもしれない。
「真奈のお父さんを告発したとき、どうして真奈にその本当の理由を言わなかったの?」
恭吾の動きがピタリと止まった。
「ずいぶん意外な質問だな。どうしてそんなことを知りたいんだ?」
「たぶん、恭吾が真奈にぜったいに言わないことだから」
恭吾は何かを言おうとして、迷ったように視線を宙にさまよわせた。あたしをごまかす適当な口実を考えているのは見え見えだった。
でも、恭吾はそれを追い払うようにゆっくりと頭を振った。
「知ってどうする? 真奈に言うのか?」
「言わないよ。別にそんな理由で知りたいわけじゃないもん。ただ、一つくらいあたしと恭吾だけの秘密があったっていいじゃない?」
「……そんなもんかな」
恭吾は少しの間、考えをまとめるように目を閉じていた。そして、ゆっくりと語り始めた。
「すっかり遅くなったな。明日の学校、大丈夫か?」
「平気、平気。帰ってすぐ寝ればじゅうぶんだよ。誰かさんと違ってまだ若いですから」
「悪かったな、三十過ぎのオッサンで」
メルセデスは今朝、あたしを乗せた高砂のマンションの前に停まった。降りるとき、プラダのバッグとマリノアの袋を一つだけ手に取った。残りは重くて持てなかったので、あとで恭吾に平尾浄水まで届けてもらうことになっていた。
メルセデスを降りて運転席のほうに回った。恭吾は窓を開けた。
「ありがと。今日は楽しかったよ」
「俺もだ。今度、また付き合ってもらいたいな」
「機会があればね」
とっておきの笑みを浮かべてそう言った。そんな機会は二度とないけれど。
「じゃあ、俺はこれで。風呂上りなんだから風邪ひくなよ」
「うん。――あ、ちょっと待って」
「どうした?」
「目のとこ、何かついてる。睫毛が抜けて目に入りそう」
恭吾は無造作に手で目の周りをこすろうとした。慌ててその手を押さえた。
「駄目だよ、そんなことしちゃ。取ってあげるから、ちょっと目を瞑ってて」
恭吾は素直に目を閉じた。目のところに指を這わせた。
「やだ、恭吾って睫毛長いんだ。女の子みたい。今度、マスカラ塗ってあげよっか」
「……昔、姉貴に同じこと言われた。あのビューラーっていうやつでカールされそうになってひどい目に遭ったよ。悪ノリした兄貴まで俺を押さえつけにかかってさ」
「仲、良いんだ?」
「それが良いって言えるんならな。どうだ、取れそうか?」
「うん、もうちょっと――」
ゆっくりと息を潜ませて、無防備な恭吾の顔に自分の顔を近づけた。まったく、こんな古典的な手に引っかかるなんて、あたしを信用しすぎだ。
何かを感じたように恭吾のまぶたが動いた。それが開く前に素早く恭吾の唇にキスした。
「――っ!?」
「はい、ご馳走さま」
飛びずさるようにクルマを離れた。呆然としている恭吾に向かって、小首を傾げて悪戯っぽく笑って見せた。
「あたし、ホントに恭吾のこと好きだよ」
しばらく――といってもほんの数秒だけど、恭吾は顔を曇らせてあたしを見つめていた。それから悪戯っ子に向けるような微笑を浮かべて、小さな声で「……ありがとう」と言った。
メルセデスは短いクラクションを残して、暗い通りの向こうに滑るように走り去った。その姿が見えなくなるまで、あたしの笑顔は持ちこたえることができた。
でも、それが限界だった。マンションの中に走り込んでから、廊下にしゃがみ込んだ。
泣きそうになるのを懸命にこらえた。泣くのは間違ってる。ふられるのは最初からわかってたことなんだから。
恭吾の声が耳の奥でずっとリフレインしていた。それは、これまで聞いた中で一番優しくて、そして、一番残酷な「ありがとう」だった。