「パートタイム・ラヴァー」第7回 | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 
 十一月にもなると、日の入りの遅い九州でも意外と早く夕暮れが迫ってくる。
 四時を過ぎれば日は傾いて、内海らしい穏やかな波頭はちょっとだけオレンジ色に染まっている。潮が引いている時間帯だったので、ライトベージュのカーペットのような砂浜を遠くまで見渡すことができた。
 海ノ中道の先っぽから志賀島へ渡る橋のたもとにクルマを停めて、あたしたちは誰もいない砂浜に足を踏み入れた。
「うわあ、きれいだね~」
「そうだな。人のいない海水浴場ってのも悪くないもんだ」
 恭吾はキーホルダーを指先でクルクルと回しながら遠くのほうを見やっている。サングラスを外していて眩しいのか、少しだけしかめっ面のようにも見える。ひょっとしたら滅多に着けないというコンタクトレンズのせいかもしれない。
「夏はすっごく人が多いんだよね。こことか、島の向こう側とか」
「よく来るのか?」
「よくってほどでもないかな。最後に泳ぎに来たのは小学校の六年生のときだから」
 中学生になると同時に非行少女になったあたしには、家族との海水浴なんか問題外でしかなかった。それが収まった三年生の夏は、それまでに遅れた分を取り返すのに必死だった。高校生になってアニキから「久しぶりに行こうか?」という話が出たことはある。でも、そのころはウチの病院が今の愛宕の高台に移転したばかりで、話はあっさり立ち消えになった。
 そして、去年の夏はそれどころじゃなかった。
「恭吾は?」
「俺は実家があっちだから」
 恭吾は来たほうを指していた。そのまま線を伸ばせば実家の北九州のほうにたどり着く。
「でも、大学からはずっとこっちなんでしょ。夏は海に繰り出したりしなかったの?」
 恭吾は微妙に口許をゆがめた。
「実はどうも海って苦手なんだよな。ガキのころに溺れかけたことがあってね」
「ひょっとして泳げないの?」
「泳げないことはない。あんまり好きじゃないってだけさ。でも、志賀島にはしょっちゅう走りに来たよ」
「多いもんね、走り屋さんが」
 海ノ中道の長い直線道路と志賀島を一周する湾岸道路は、走り屋を始めとしてストレス解消にブッ飛ばす人たちの御用達スポットとして有名だ。西方沖地震のときの土砂崩れで長らく通行止めになっていた区間も、つい最近復旧したとテレビのニュースで言っていた。
 二人で並んで、波打ち際に向かって歩き出した。
 海風はさすがに冷たい。ブルゾンの前をかき寄せた。ファーの襟はモサモサした感じが好きじゃないのでめったに着ないのだけど、温かさという点ではなかなか悪くない。
「ね、腕組んでいい?」
「いいよ」
 恭吾は腕を寄せてくれた。自分の身体を押し付けるように擦り寄った。そんなはずはないのに、ブルゾンの厚い生地を通り越して恭吾の体温が伝わってくるような気がした。
 当たり前のような顔をしながら、ゆっくりと手を下ろして恭吾の指先に触れた。一瞬、恭吾がこっちを見た。
 構わずにそのまま手を滑らせて、思い切って指を絡ませた。
 恭吾は何も言わなかった。
 大きな手だった。俳優とかモデルがつとまりそうな甘い顔立ちとはまるで違う、ゴツゴツと節くれだった手だ。荒れてるわけじゃないけど、触れた肌の感じもなんだか硬かった。

 男の人の手だなと思った。
「……あのね」
「なんだ?」
「さっきご飯食べてるときに、真奈のことであたしにお礼を言わなきゃって言ったじゃない。実はあたしも恭吾にお礼を言わなくちゃいけないって、ずっと思ってたことがあるんだよね」
「何か、礼を言われるようなことがあったか?」
「あたしのママを助けてくれたじゃない」
 一瞬の沈黙。ため息と呼ぶには薄い吐息が、恭吾の口から漏れた。
「……お母さんの自殺を食い止めたのは真奈だ。俺じゃない」
「でも、その場所に真奈を連れて行ってくれたのは恭吾だよね?」
 手を離して彼の前に回り込んだ。見上げるように困惑したような恭吾の目をじっと覗き込んだ。
 去年の夏、あたしのママはとても悲しい事件を起こした。アニキを守るためだったとはいえ、ウチの病院に勤めていた先生を殺して、その上、最後にはずっと自分を裏切り続けてきたパパを拳銃で撃ち殺した。
 逮捕される前に、隠し通そうとしていたあたしの出生に関わる秘密に気づかれていないか確かめようと、ママは真奈を呼び出した。
 でも、そのときにはすでにママは警察に追われる身だった。いくら無鉄砲な真奈でも勝手に会いに行けるはずはなかった。
 それを上司を説き伏せて可能にしてくれたのが、事件の発端になった当時のあたしの彼氏への傷害事件を担当していた博多警察署の刑事――恭吾だったのだ。

 

 恭吾と初めて会ったのは、事件のあと、およそ一ヵ月の入院生活の終わりごろのことだった。

 最初は取り調べに来た刑事さんの一人かと思った。そうじゃないとわかったのは、彼が鮮やかな青紫色の花束を抱えていたからだ。
「あんた、何しに来たのよ」
 ほぼ毎日、お見舞いに来てくれていた真奈がぶっきらぼうに言った。恭吾は負けず劣らずぶっきらぼうに「見舞いだ」と答えた。
 あたしが監禁されている間に起こったことのあらましは、警察の事情聴取やそれに立ち会ってくれた弁護士さん、そして真奈から聞かされていた。だから、恭吾が事件の中でどういう役回りだったのか、そして何をしてくれたのかは知っていた。
 彼はベッドサイドに立ったまま、あたしの容態を尋ねた。あたしが口を開く前に、真奈がそれに答えた。
「……とりあえず、順調に快復しているようで良かった」
 柔らかいテノールが、それまで真奈から聞かされていたのとは違う印象であたしの耳に届いた。
 何と言っていいのかわからなくて、あたしはボソボソとお礼を言ってペコリと頭を下げただけだった。本当なら真奈に対するのと同じくらい感謝するべきだったのだけど、その時点ではまだそこまで心の整理がついていなかった。
 花びんを探しに行った真奈を見送って、恭吾は花束をベッドサイドのテーブルに優しく横たえるように置いた。
「――きれい。リンドウですよね、それ」
 恭吾は少しだけ目を細めた。
「気に入ってもらえたんなら良かった。花のことなんてまるでわからないんで、いくつか出してもらった中から選んだんだけどね」
 そうなんだろうなと思った。少なくとも、リンドウの花言葉が”悲しんでいるあなたを愛する”なのを知っているようには見えなかった。
 あたしから話をするのはなんだか筋違いな気がした。でも、恭吾は自分からは何も話そうとしなかった。あたしはとっくに見飽きてしまっていた外の景色を眺めながら、時折こっちをチラリと見ていただけだ。
 なので、あたしもボンヤリと恭吾のことを眺める以外にすることがなかった。
 絵になる人だな、というのがそのときのあたしの感想だった。タバコが似合う女の人が滅多にいないのと同じように、花束が似合う男の人も滅多にいない。
 恭吾はその滅多にいない一人だった。
「……どうかしたかい?」
 あたしはその言葉で我に返った。
「いえ、その……、遅いですね、真奈」
 見とれていたのに気づかれたくなくて、あたしは顔を逸らした。
「そうだな。何やってんだか」
「花びんを選ぶのに時間がかかってるのかも。売店にけっこういろいろあったし」
「意外とそういうとこ、優柔不断なんだよな」
「ですよね」
 恭吾は「お大事に」を言ってから、真奈が戻ってくるのを待たずに帰っていった。
「何よ、あいつ。せっかくコーヒー買ってきてやったのに」
 戻ってきた真奈はそう言って憤慨した。あたしは思わず吹き出してしまった。
「由真――あんた、笑ったよね?」
「えっ?」
「今までアタシがどれだけ面白いこと言っても笑わなかったのに。どうしたの?」
 真奈はあたしの顔を覗き込んだ。
 どうしてそうなったのか、自分でもわからなかった。照れ隠しに真奈を睨んでみせた。
「それは真奈のギャグが寒かったからじゃない?」
「うっわ、ひっどーい」
 恭吾がお見舞いにきてくれたのは、結局、その一回だけだった。
 以前のようにとはいかないまでも真奈との関係が良くなったことで、恭吾はちょくちょくあたしの前にも現れるようになった。真奈とはいつもぶっきらぼうなやり取りで、知らない人が見たらケンカしてるんじゃないかと思うほどだった。
 あるとき、補習を抜けられない真奈の代わりに、博多駅の近くの公園で恭吾と待ち合わせをする機会があった。恭吾がもう弾かないからと真奈に譲ることになったアコースティック・ギターを受け取るだけの、子供のお使いのような用事だった。
「けっこう重いけど、持てるかい?」
 恭吾はギターケースを渡しながら言った。
「う~ん、これくらいならイケると思いますけど。――あっ!!」
 いくら何でもそこまで非力じゃない。でも、まるで自慢じゃないけどあたしは不器用だ。取っ手を掴み損なって、あたしはケースを取り落とした。ゴトンという嫌な音が辺りに響きわたったような気がした。
「ご、ごめんなさいっ!!」
「いや、それよりケガはないかい? 足の上に落とさなかった?」
 首を振った。実はケースの角が足に当たっていたけれど、痛がってる場合じゃない。
「ギター壊れてないですか?」
「あの程度の落下なら、俺が何度もやってるから問題ないと思うけどね」
 恭吾はケースを軽々と拾い上げて近くのベンチの上に置いた。中のギターは壊れてはいないようだった。ベンチに腰掛けた恭吾はギターを組んだ脚の上に乗せた。ペグを調整しながら弦を弾きおろすとジャランというきれいな音がした。
 恭吾は大丈夫だと言った。
「ホントですか。あ~、良かった」
「そんなに気を使うほどのものじゃないんだけどね。俺が学生時代に弾いてたやつだから、もう十何年たってるオンボロだし」
「村上さんってそんなにギター弾いてるんですか?」
「中学生のころからだからキャリアは長いね。でも、もうずいぶんと弾いてない。昨日、久しぶりに弾いてみたんだけど、指が思ったように動かなくてさ」
 恭吾は少し照れたような微笑を浮かべた。その微笑みはあたしの悪戯心をひどく刺激した。
「一曲、聴いてみたいな」
 少し甘えるような口調で言ってみた。これと上目遣いの覗き込みを組み合わせると、真奈ならほぼ一撃でノックアウトすることができる。
 恭吾にもそれなりに効き目はあった。彼は視線を逸らして頭を掻いた。
「……しまった、言うんじゃなかったな」
 メガネの奥の意外とパッチリした目が本当に困っているようで、こみ上げてくる笑いを抑えるのにものすごく苦労した。
 隣に座ったあたしに「知らない歌かもしれないけど」と前置きして、恭吾は弦を爪弾き始めた。
 優しくて静かなバラードだった。弾くだけのつもりだったのだろうけど、恭吾は無意識にささやくように歌っていた。とても小さな声だったので歌詞は聞き取れなかった。
 でも、それは聴いたことのない曲じゃなかった。
「ティアーズ・イン・ヘブン、ですよね?」
「なんだ、クラプトンは聴くのかい? 真奈は洋楽は聴かないって言ってたが」
「たまたまですけど。ちょっと聴きたい曲があって、CDを買ったんです」
「へえ……」
 あの事件のさなか、仲違いをしていたあたしと真奈は仲直りの記念にお互いに一曲ずつ贈り合ったことがある。あたしは鬼束ちひろの「月光」を、真奈はエリック・クラプトンの「Change the World」を選んで、それぞれのipodにダウンロードした。
 残念ながら、あたしのipodは事件の間にどこかへいってしまった。しばらくは思い出しもしなかったけど、あるときあらためて聴きたくなってマキシCDを買ったというわけだ。

 その中に「Tears in Heaven」も収録されていたのだ。クラプトンが幼くして亡くなった息子を想って作った曲だということは、あとでネットで調べて知った。
「気に入ってもらえたかな?」
「すっごく」
「そりゃ良かった」
 十五年近く弾いているんならそれなりにレパートリーはあるはずだった。恭吾がその中から、どうしてこの曲を選んだのかは結局訊きそびれた。
 単に昨日、たまたま弾いてみたというだけかもしれない。でも、ひょっとしたら何らかの意味があったのかもしれない。ママを裏切っていたのは確かだけれど、それでも大好きだったパパと、あたしの本当の母親を愛してくれた大切な人を失ったことへの、彼なりの励ましの意味が。
 
 ”I must be strong and carry on.'cause I know I don't belong here in heaven”(わたしは強くなくてはならないし、生きていかなくてはならない。だって、天国はわたしがいるべきところではないことがわかってるから)
 
「……本当はもっと早くお礼を言わなきゃって思ってたんだけど、こんなふうに二人でゆっくり話す機会なんかなかったしさ」
 二人で波打ち際をゆっくりと歩いた。濡れた砂浜に足跡が残って、でも、それは波が引いていくと消えてなくなってしまう。
「あれは警官としてやったことだ。礼を言われるようなことじゃない。断っておくが、もしお母さんが真奈に銃を向けていたら、俺はお母さんを撃つつもりだったんだぞ」
「わかってるよ。それでもやっぱり感謝してるの。恭吾は命令違反まで冒して、真奈をママに会わせてくれた。そんなことしなきゃいけない理由なんてなかったのに」
 あのまま真奈と話すことなく逮捕されていれば、ママは望んだとおりに秘密を守れた代わりに自分が犯した罪を悔いることもなく、内心ではほくそ笑みながら判決を聞いていたことだろう。
 そして、あたしはママとわかり合うことができなかったに違いない。
「それが、今日のこのデートをオーケーしてくれた理由なのかい?」
「そういうこと」
 続きの「……半分はね」という言葉は口には出さなかった。
「後から聞いたんだけどさ、あのとき、ママの気を逸らすのに足元にあったバドワイザーの瓶を狙い撃ったんだって?」
「ああ。陽動のつもりだった」
 破裂するビール瓶に気を取られたことで、真奈がママの拳銃を蹴り落とすチャンスが生まれた。
「あのイ・ビョンホンみたいな刑事さんが言ってたよ。あの距離で小さな的に当てるのはちゃんと狙ったって至難の技なんだって。しかも三発撃って三発とも命中させたんでしょ。すごいよね、恭吾って。ゴルゴ13みたい」
「あんな立派な眉毛はしてないけどな。昔からどういうわけか、遠くの的にモノを当てるのは得意なんだ。石やボール、ダーツ、他なんでも」
「そんなにコントロールが良いんだったら、ピッチャー目指せばよかったのに」
「あれはバットに当てないように投げなきゃならないからな。でも、高校が野球部が強い学校だったんで、入部テストだけは受けたことがあるよ」
「どうだったの?」
「球速は申し分なかったんだが、四連続デッドボールを出して追い出された」
 恭吾はそう言って悪戯っぽい微笑を浮かべた。あたしもつられたように笑った。