「ブラジリアン・ハイ・キック ~天使の縦蹴り~」 終章(1/2) | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 
「――ちょっと、薫さん、待ってくださいよッ!!」
 ボクは懸命に彼女を呼び止めた。
 福岡市中央区、天神のど真ん中。岩田屋前の広々としたオープンスペース。夏休みの真っ最中で、辺りは老若男女――老はあんまりいないか――でごった返している。照りつける陽射しは強烈で、熱気の壁を掻き分けながら歩いているような気さえする。

 日本はすでに温帯じゃなくて亜熱帯だという説も、まんざらでたらめじゃないな。
「亮太、おっそーいッ!!」
 薫さんは人ごみの間から、自分の存在を主張するようにピョンピョンと飛び跳ねている。小柄な彼女は人ごみの中ではラフに飛び込んだゴルフボールと同じだ。ボクは重いボストンバッグを肩に掛け直しながら彼女に駆け寄った。
「遅いって……薫さん、福岡の地理とか分かってるんですか?」
「そんなわけないじゃん。だいじょうぶよ、人ごみの中でも亮太はすぐに見つかるから」
 確かにボクは人垣の中にまぎれても頭一つ飛び出しているので、ちょっと見渡せば簡単に見つかってしまう。歩く標識とまで言われるほどだ。
「っていうか、二人のときは”さん”はつけない、敬語も使わないって約束じゃなかったっけ?」
「……うっ」
 確かにボクらの間ではそういう取り決めになっている。
 でも、そう簡単に使い分けなんてできるはずがないので、非難は覚悟の上でボクはさんづけと敬語を使うことにしている。だいたい、そんなことで周囲に二人が付き合っているのを隠し果せていると思っているのは彼女一人だけだ。
 何か飲みたいという彼女の意見で、ボクらは岩田屋の一階のスターバックスに入った。彼女はいつものようにヴァニラ・クリーム・フラペチーノ、ボクもいつものようにホットのブラックを買った。
「あっついのに、亮太ってばよくそんなの飲めるね」
「慣れれば、こっちのほうが身体にいいんですよ。ところで、この後ってどういうスケジュールになってるんですか?」
 薫さんはチラリとボクを睨んでから、パンパンに膨らんだシステム手帳を取り出した。
 それはボクが所属する大学のフルコンタクト空手部のすべて――チケットや現金、部名義の預金通帳、年間のスケジュール、その他活動に必要ないろいろ――が詰まった代物だ。優秀なことで知られるマネージャーの彼女は、そこに書かれていることの大半を暗唱している。
 だったらいつも「重たい、重たい」と文句を垂れながら持ち歩く必要などないような気がするけど、付き合い始めた頃に突っ込みを入れたら身が竦むような目で睨まれたので、それ以来そのことには触れないようにしている。
「えーっとね、さっき電話があったんだけど、合宿所の迎えのマイクロバスが二時間くらいで来るって。待ち合わせはキャナルシティ。――ねえ、これってどの辺にあるの?」
「中洲の向こう側ですね」
 ボクは記憶をたどって方角を思い出した。向かいにあるソラリアプラザの向こう側を指差した。たぶん間違ってないはずだ。
「遠いの?」
「ここからだとそんなに離れてないですよ。歩いて十五分くらいじゃないかな」
「えーっ、そんなに歩くの!? バスとかないの?」
「……あると思いますけど」
「じゃあ、そっちで行こ」
 マネージャーの彼女は、当然ながら他の部員と違って特に運動が好きなわけじゃないし、他の部員(ボクも含む)にしたってこの炎天下をほっつき歩くのはあんまり気が進まないに違いない。
「そういえば残りの面々は?」
「とりあえず自由行動ってことで。天神から出るなって言ってあります。そうすれば、はぐれても何とか電話のやり取りで見つけられますから」
「さっすが、元博多っ子」
「それは事実誤認ですってば。ボクは土浦の出身だし、福岡に住んでたのは結局、中学三年生の一年だけでしたから」
「そうなんだ? 部長がどっかのタイミングで中洲を案内してもらおうとか言ってたよ」
「ボク、まだ未成年なんですけど。一回生だし」
「そうは見えないもんね、亮太って。よっ、若年寄っ!!」
 なんだよ、その掛け声は。
「ね、今度の秋の大会、どう?」
 薫さんは意味もなく声をひそめた。
「どうですかね。一回戦でいきなり優勝候補と当たりますから」
「あの、ごっつい筋肉ダルマでしょ。あんなやつ、亮太の得意技でやっつけちゃえばいいじゃん。なんて言ったっけ。――ブラジリアン・キック?」
「ブラジリアン・ハイ・キック」
 ボクは訂正した。薫さんは頬を膨らませた。
「あれって絶対上段蹴りなんだから、わざわざ”ハイ”ってつけなくてもいいでしょ?」
「好みの問題ですよ。ま、ボクにあの技を教えてくれた人が、そう呼んでたってだけなんですけどね」
「ヘンなの」
 薫さんはゆっくり時間をかけてフラペチーノを飲み干した。熱いものは苦手だと言うくせに、冷たいものを飲むと「頭が痛い」だの「歯が痛い」だのとうるさい。
 ボクはとっくにコーヒーを飲み干してしまっていた。コーヒーと言えばブラックしか飲まなくなったのはいつ頃からだろう。
「じゃあ、もうちょっと時間あるんですね。だったらこの辺、ウロウロしましょうか?」
「この辺?」
「ここからちょっと裏手の大名って地区に入ったら、薫さん好みのショップとかブティックがありますよ」
「亮太ってば詳しいんだ。そういうの興味あったっけ?」
「違いますよ。ボクは中学生だったし、だいたい住んでたのは東区っていって、ずいぶん向こうのほうだったんです。ボクはときどき遊びに来て、街をウロウロと見て回ってただけです」
「へえ。当時の彼女と?」
 一瞬、言葉に詰まった。

 嘘をつく必要はないのかもしれないけど、それは付き合ってる人に話すことじゃないし、ボク自身にとっても心の奥にわだかまる痛みを思い起こさせる苦い質問だった。

 ボクはニッコリと笑った――我ながらわざとらしい作り物の笑顔。
「野暮ですよ、それを訊くのは」
 
 そのまま岩田屋の中を通り過ぎて、裏側の天神西通りに出た。
 片側一車線の狭い道にクルマが長い列を作っている。歩道は二人で並んで歩くのがやっとで、正面から人が来たら離合できない。
 一年間で身についた福岡の方言はほとんどないけど、この「離合」という人やクルマがすれ違うことを指す単語だけはつい出てしまう。関東に戻ってずいぶん笑われたけど、一方で大学で九州から出てきた人と友だちになるきっかけにもなったので、あながち悪いことばかりでもなかった。
「どう、三年半ぶりの福岡は? 亮太がいた頃と変わった?」
 薫さんが言った。
「大まかなところは変わってないですけど、やっぱり知らない店とかできてますね。さっきの岩田屋だって、ボクがいた頃はまだZ-SIDEっていって別館扱いでしたから」
 それが今では道を挟んだ隣のビルとあわせて岩田屋の本館になっている。交差点を挟んだ反対側にあったビル(たしか、ローラなんとかと言った)も真新しいファッションビルに建て替わっていた。
 西通りをブラブラ歩いて、南端のアップルストア(これもボクがいた頃はなかった)を覗いた。中古で買ったiPodのバッテリーが弱っていて新しいのに買い換えたいけど、手持ちが寂しくてなかなか踏み切れないでいる。
「亮太って偉いよね。学費とアパートの家賃だけ出してもらって、あとは自分でバイトでやりくりしてるんでしょ?」
「別に偉くないですよ。ウチは転勤族のサラリーマン家庭ですから、親に負担かけられないんです」
「それが偉いって言ってんのよ。ウチの部にだって、何から何まで親掛かりってのがいっぱいいるからね。ひどいのになるとパチンコやらキャバクラで赤字出して、毎月SOSを発信してるのもいるし」
 ボクは笑ってやり過ごした。
 ウチだって言えば生活費くらい出してくれる。実際、親からは毎月いくらかの金額が、家賃や学費と一緒にボク名義の通帳に振り込まれているはずだ。
 ただ、ボクはそのお金には手をつけないことにしていた。おかげで二つのバイトを掛け持ちしなきゃならないけど、贅沢を言わなきゃその金額で美味しいものを食べて、好きなジャズのCDを何枚か買って、薫さんとのデートにだって回せる。
「亮太って大人だね。あたしなんかよりずうっと」
「そんなことないですって」
 アップルストアを出て、そのままけやき通りを歩いた。
 道路の上まで覆いかぶさるケヤキ並木が続いていて、直射日光があたる他の道よりはいくらか涼しいような気がする。ゆるやかな上り坂に建ち並ぶビルはちょっとだけ周囲よりもセンスがいい。規模を思いっきり小さくした原宿の表参道という表現でいいとボクは思うけど、福岡の人がどう思うかは分からない。
「あ、あんなとこでファッション・ショーやってるよ」
 薫さんが通りの先のほうを指した。
 レンガ色のタイルに覆われた真新しいビルで、真ん中が吹き抜けの階段、両翼がそれぞれテナント・ショップになっているという形だ。階段とその前のスペースをステージにしてショーをやっているらしい。
 黒山の人だかりというとちょっと大げさだけど、それなりにギャラリーはいる。敷地に収まりきれなくて歩道にはみ出している人もいるくらいだ。

 どこかのテレビ局も取材に来ていて、レポーターと思しき女性がカメラに向かって鼻に抜けるようなフワフワした声でレポートしていた。話の内容からすると地元のローカル番組に出ている女性タレントの一人がそのショーに出ているようだった。
 率直に言ってあんまり興味が湧かなかった。そのタレントはボクがいたときにはすでにテレビに出ていんだけれど、その頃のボクは――まあ、今でもそうなんだけど――胸が大きな女性には距離を置くようにしていた。
「……ねえ、ちょっと見ていっていい?」
 薫さんが上目遣いで言った。やたらと服を買い過ぎるのにいい顔をしないボクといるとき、彼女は「見るだけだから」とオモチャ売り場の子供のようなことを言って、何とかショップへ入ろうとする。
 おそらく最初からどこかのショップに行くつもりだったのだ。そう言えば博多駅に着くなり、薫さんは「福岡の子ってかわいい服着てるよねえ」と犯行予告のような呟きを洩らしていた。
 ボクはため息を洩らした。
「荷物になるから、あんまり大きなのは買わないでくださいね」
「うん、分かった!!」
 子供のような笑顔。三つも年上――姉貴と同じ――なのに、どっちが年上だか分かったもんじゃなかった。
「ボク、そこの先のケンタッキーで待ってますから……って、聞いてないし」
 ボクの言葉を最後まで聞かずに、薫さんは身を翻して人垣の中に潜り込もうとしていた。

 もう一度大きくため息をついた。これで後になって「待ち合わせ場所を聞いてなかった!!」とか言いながら、怒りの電話がかかってくることが確定したからだ。
 ボクは人垣の上から、そこで行われているショーの様子をボンヤリと眺めた。
 ステージは楕円形の螺旋階段と、その下から伸びるT字型の通路で構成されていた。

 モデルは二階から階段を降りてきて、そのまま正面まで歩いてきてからT字の左右を往復するようになっている。途中、数箇所で止まってポーズをとるようにもなってるようだ。取り澄ましたような笑顔とシャープな身のこなし。このクソ暑い中で、辛そうな表情一つ出さずにステージをこなすのには結構な体力が必要だろう。

 思わず苦笑いが洩れた。こんな体育会系の視点でファッション・ショーを見るヤツなんていないだろうな。
 その場を立ち去ろうとしたとき、次のモデルが二階の踊り場に姿を現すのが目に入った。

 ボクは息を呑んだ。
 それまでのモデルの中でも一番の長身で、面長な凛々しい顔立ちに流行っぽいオリエンタル風のメイクを施している。黒髪をバンダナで留めて、丈の短い芥子色のチュニックとベージュの幅の広いパンツという格好だ。腕や胸元はやはりアジアっぽい感じのアクセサリで飾られている。その前のモデルが割と可愛い系の顔立ちだったせいか、鶴田一郎の美人画のようなクールさがやけに際立って見えた。
 ボクの目の前にいた若い女性の二人組が、感嘆混じりに「……きれいだね」と囁き合っていた。
 怜悧な微笑を浮かべながら颯爽とステージを歩く彼女は、そこにいるだけで人の目を惹きつける何かを備えていた。二人組に限らず、彼女の動きにあわせるようにギャラリーの視線が移動する。
 そしてボクもまた、彼女から目を離すことができないでいた。ただし周囲とは違う理由で。
 彼女は真奈――佐伯真奈だったのだ。