「ブラジリアン・ハイ・キック ~天使の縦蹴り~」 第16章 | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 
 姉貴の悲鳴のような叫び声――ボクの名前を呼ぶ声が聞こえる。
 たった数メートル向こうのはずなのに、やけに遠くに感じられる。左耳の奥に何か詰まったように感覚がなくなっている。どうやら鼓膜が破れたらしい。
 あれから、どれくらい時間がたったんだろう。
 まだパトカーのサイレンが聞こえる気配はない。とんでもなく長い時間が過ぎたような気がするけど、そう考えると大して時間は稼げていないようだ。
 なのにボクはコンクリートの床に転がって、指先すら動かせなくなっていた。途中から”顔は痕が目立つ”という理由でしこたま腹を殴られていた。おかげで内臓が圧縮プレス機にかけたように押し固められてしまっている。弁当を食べていたら、今ごろ胃の中身をぶちまけていただろう。
「ふう、やっと倒れやがった。ガキのくせにけっこうタフだな」
 古閑の弟――ヤスシの声。ボクより二学年上なだけとは思えない見事なすきっ歯のせいで、どうしても空気が洩れてるような妙な感じに聞こえる。
「そいつがタフなんじゃなくて、おまえが弱いだけだろ」
 誰かが混ぜっ返す。
 ヤスシは言い返しはしない。たぶん、言ったのは目上の誰かなんだろう。
 こいつらのグループ内の力関係になんて何の関心もないけど、変にチャチャを入れるのはやめて欲しかった。その分の腹いせがボクに回ってくるからだ。案の定、ヤスシはボクの背中に蹴りを入れた。
 勝てないことは最初から分かっていたし、覚悟もしていた。ボクの役目はとにかく姉貴たちから目を逸らさせること、そして、時間を稼ぐこと。だから、こうやって地面に這いつくばって足蹴にされても冷静でいられた。悔しくないわけじゃ、もちろんないけど。
 真奈は――警察はまだか。
 一瞬、何かの手違いでこのまま来ないんじゃないか、という考えが脳裏をよぎる。
 真奈がうまく警察に説明できないで、まともに取り合ってもらえなかったんじゃないだろうか。あるいはボクが送った指示メールがサーバに引っかかったままになっていて、真奈は連絡がないことにやきもきしながらコンビニの前をウロウロしているのかもしれない。ひょっとしてコンビニに行く途中で無免許運転で止められて、話も聞いてもらえずにこっぴどくしぼられているのかも……。
 次々に浮かぶ不吉な考えを必死で振り払った。今さらジタバタしても始まらない。
「……さて、と」
 古閑が言った。さっきまで「ぶっ殺す」を繰り返していたとは思えない朗らかな声。
「リョータくんもおとなしくなったところで、みんなでドライブに行くか。ヤスシ、ミノル、そのガキをおまえらのランクルに乗せろ。俺とハルカはノブのマークⅡに乗せてもらう。アッコとチヒロはカズシのアルテな」
 全員が思い思いに返事する。しないのはボクと姉貴、アッコとかいう赤毛の子。諦めたのか、それとも、恐ろしくて声が出せないのかは分からないけど、姉貴たちは沈黙してしまったままだ。
「こいつ、連れてくのかよ?」
 ヤスシの不満そうな声。古閑が皮肉っぽく笑う。
「途中で捨てるさ。いくらなんでもここに置いとくわけにいかねえし。ま、運が良けりゃ誰かに拾ってもらえるだろ」
「俺たちのこと、タレこんだらどうすんだよ?」
「大丈夫だ。何と言ってもお姉ちゃん想いのリョータくんだからな。ヘタなことすりゃハルカがどれだけ恥ずかしい思いをするか、想像できないわけじゃねえだろうよ」
「なーるほど、さすが兄貴」
 こういう輩が考えることって、どうしてこうベタなんだろう。まあ、ベタは効果があるからベタなんだという考えかたもあるけど。
 しかし、古閑たちがここを出るとなると、いろいろと話が変わってくる。
 もし真奈が間に合わないのなら、せめて手掛かりを残していかなくちゃならない。携帯があればブラインドタッチでメールを打つという奥の手(実は特技)があるけど、壊されたくなかったので倉庫の外に隠してきていた。指示のメールを見た真奈から電話がかかってくるのを、こいつらにとられたくないというのもあった。
 代わりのアイデアはまるで浮かばなかった。
 ボクはヤスシとモジャモジャ――ミノルの二人がかりで外に運び出された。
「なんで俺はこのガキで、ノブさんたちは女連れなんだよ。不公平だよな」
 ヤスシがぼやく。
「それを言うなら俺だって。あーあ、せめてチヒロだけでもこっちならいいのに」
「あれは俺のオンナだ」
「よく言うぜ。チヒロのやつ、ノブさんとカズシさんにべったりじゃねえか」
 話を聞いているだけでそこはかとなく人間関係が見えてくる。古閑と真ん中分け、トサカ(どっちがノブでどっちがカズシかは分からないけど)はイーブンな関係。ヤスシとミノル、チヒロは同学年だろう。ヤスシはまだチヒロと付き合ってるつもりのようだけど、チヒロはそうでもないようだ。それは窓の外から見ていてもそう思えた。
「ここまでクルマ回してくるから待ってろよ」
「分かった。……意外と重てえな、こいつ」
 一人じゃ支えきれなくて、ミノルはボクをコンクリートの前庭に放り出した。受身が取れずに背中を強く打ちつけた。衝撃で肺の中の空気を吐き出させられて、ボクはその場で猛烈に咳き込んだ。身体を丸めて何とか呼吸を取り戻そうとするけど、なかなか咳は収まらなかった。
「うっわ、汚ねえ。よだれで顔がグチャグチャだぜ」
 嘲るようなミノルの声。ヤスシはクルマに行こうとして、途中で戻ってきた。
「どうした?」
「いや、どうせなら今のうちに迷惑料をもらっとこうかと思ってさ。あとで兄貴たちが身ぐるみ剥いじまうだろうけど、こっちには回ってこないからな。クルマを汚されるのは俺なのに」
「あ、それは言える」
 ヤスシはボクの上を跨いでポケットを漁り始めた。
 抵抗しようにも手足に力が入らない。せめてと思って身体を捩ったら、ヤスシが面倒くさそうに「大人しくしろ」と言って拳を落としてきた。後頭部を殴られて目の奥で火花が散った。
「オッ、なんだコレ?」
 ヤスシの手が腰の後ろのフラッシュライトに触れた。お守りとして貸してもらったけど、結局使わずじまいだった。
「なんだよ、懐中電灯か。いらね、いらね。財布は持ってねえのか……お、けっこう持ってんじゃん」
 ジーンズの尻ポケットから財布を抜かれた。たしか、一万円とちょっと入っているはずだ。あとはレンタルビデオ屋のカードと西鉄の定期券、ファミレスのドリンク券。それと――。
「うっわ、誰だよ、この女!!」
 ミノルが大声で笑う。
 本人には絶対にナイショだけど、それは学校でこっそり撮った真奈の写真だった。
 休み時間になると一人で中庭で過ごす習慣がある真奈を、父親が一時期趣味で使っていた超望遠の一眼レフで校舎の影から撮影したものだ。音楽を聴いているのか、耳には白いイヤフォンが挿し込まれている。木々のやわらかい影の下で、うっすらと目を伏せて物想いにふける真奈は十五歳とは思えないほど大人びていた。
 盗撮と言われても、ボクには何も言い返すことはできない。撮らせてくれと頼んでも断られること間違いなしなので、そうするしかなかったのだ。
「あれっ、これってヤスの中学の制服じゃねえ?」
「へっ? ああ、そうだな。――おい、ちょっと待てよ。なんでこいつがこの女の写真なんか持ってんだ?」
 ヤスシの声が曇った。
「なんだよ、知ってんのか?」
「知ってるも何も――」
 ヤスシは言いよどんだ。そりゃそうだろう。暴力だけが拠り所のこいつにとって、二つも年下の女の子にぶちのめされたのは忌まわしい過去以外の何者でもない。
「ひょっとして、おまえが中学んときにボコボコにされたっていう女?」
 ミノルの声に嘲りが混じる。
 一瞬、その場に剣呑な空気が膨らんだけど、すぐにしぼんでしまった。
 ヤスシはぶっきらぼうに「……そうだ」と認めた。自分で喧伝するはずはないので、おそらく古閑が面白半分に言いふらしたんだろう。いい兄貴を持って幸せだな。
「チクショウ、こいつのせいで俺はエライ恥をかいたんだ。兄貴にはとことんバカにされるしよ」
「そりゃ女に負けるおまえが悪いんだろ。つーか、そんなに強えの?」
「認めたかないけどな。空手やってて、女にしちゃやたらデカイし。言っとくが、俺は相手が女だからって油断しててやられただけだ。相手が空手使いだってわかってりゃ、あんなことにはなってねえよ」
 いくら油断してたって瞬殺はないだろ。
 心の中で突っ込んでやった。ミノルも同感だったようで、喉の奥で笑い声をあげている。
「しっかし、こうやって見ると意外といいんじゃねえ、こいつ?」
「どこがだよ。おまえ、実物見たことないからそう思うだけさ。一七〇センチ以上もあるオトコオンナだぜ」
「誰がオトコオンナだって?」
 唐突に誰かが割り込む。ちょっとハスキーなアルト。
 その声は――!?
「ひぶっ!!」
 ボクの目の前にヤスシの顔が転がってきた。
 そのまま頭を踏みつけるように足が落ちてくる。アディダスのマークが入ったスニーカー。ヤスシはとっさに地面を転がってその足を逃れた。
 ボクは首を捻って宙を見上げた。下から見上げるアングルのせいで実際以上に長く見える脚。
 ――真奈!!
 心の中で叫ぶ。本来あるべき立場とは逆だけど、助けに来てくれたことに胸が熱くなった。
「くっそ、テメエ――」
 ヤスシが身体を起こそうとする。
「うるさい、バカヤロウッ!!」
 真奈はヤスシの顔面を思いっきり蹴り上げた。ゴツッという鈍い音がして、ヤスシはもんどりうって倒れた。真奈はさらに追い討ちをかけようとしている。
 パチン、という音がした。
 音がしたのはミノルの手の中だった。折り畳み式のナイフのノッチの音だ。オモチャのような小さな刃先だけど、もちろんそれはオモチャじゃない。ヤスシに向かってるせいで真奈はミノルに背を向けている。
 ――危ないッ!!
 声は喉に引っかかって出せなかった。
 起き上がろうとしたボクの手に何かが触れた。ついさっき、ヤスシが「いらね」と言って放り出したフラッシュライト。
 拾い上げて、逆手に持ってグリップエンドのボタンに指をかける。押しっぱなしじゃないと消えてしまうので手を添えたままだ。連続発光にすることもできるはずだけど、その操作方法がとっさに思い出せない。
「オイッ!!」
 力いっぱい怒鳴った。反射的にミノルがこっちを向く。発光ボタンを押し込んだ。先端から強烈な白色光――文字通りのビームが伸びる。
「――ッ!!」
 ミノルの声にならない悲鳴。完全に不意打ちだったので、手で遮ることもできずに直視してしまっている。
 ……おい、こんなの子供に持たせていいのかよ。

 そう突っ込みたくなるほど、シュアファイアのフラッシュライトはとんでもない代物だった。至近距離では直接当たっていなくても目を背けずにいられないほどだ。細長いグリップの形のせいもあって、ボクはガンダムのビームサーベルを連想してしまった。
「亮太、ナイスっ!!」
 声と共に視界に真奈が飛び込んできた。

 ミノルが必死に身体を捩る。頭を両手でガードして、腹部を守ろうと身体を丸める。目が見えない状況では、それしか方法がない。

 真奈は冷酷にも無防備な股間へ、蝶野正洋ばりのケンカキックを叩き込んだ。見ているボクまで生唾を飲み込んでしまいそうな金的蹴り。
「ウゲエッ……!!」
 力ない呻きがミノルの口から洩れる。

 後ろ向きにたたらを踏むミノルをめがけて、真奈はとどめの上段後ろ回し蹴りを放った。すでに防御の術がないミノルの側頭部に、真奈のかかとが吸い込まれるように命中した。
 悲鳴すらあげることもできずにミノルは撃沈した。