「ブラジリアン・ハイ・キック ~天使の縦蹴り~」 第1章 | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 
「……あー、じゃあ、ここに名前と住所書いて。それと、ここの”男子”ってとこにマルね」
 応対に出た三〇歳位の男の人はそう言って、ボールペンの尻で入会申込書の欄を指した。
 空手の師範代よりは塾の先生のほうが似合いそうな線の細い、正直言って頼りなさそうな顔立ち。おまけにボソボソ声でものすごく聞き取りにくい。道着姿なのにまったく強そうに見えないこの人を”師範代”と呼ぶのはちょっと、いや、かなり躊躇われた。
 名前を書こうにも、そこにはこの人の手の中のペンしか筆記用具はなかった。仕方ないので自分のペンを出して、言われたところに自分の名前を書いた。
「三浦亮太くん、か。いい名前だね」
「……どうも」
 ペコリと頭を下げた。他になんと言えばいいんだろう。
 香椎のど真ん中にある雑居ビルの二階にある空手道場。だから、そんなに広くはない。こういうところのお約束どおりに天井からはサンドバッグが、壁には額縁に入った賞状や”鍛錬”と書かれた掛け軸なんかがこれ見よがしに掛けてある。
 奥に更衣室と倉庫はあるようだけど他に部屋はなくて、ボクと師範代は隅っこの畳が敷いてあるスペースで、卓袱台のような小さなテーブルを挟んで向かい合っていた。一応は胸くらい高さの衝立で囲われているので、ここが事務室ということらしい。
 師範代はボクの「入会したいんですけど……」という声に、ちょっと薄気味悪いくらい、にこやかに応対してくれた。
 理由は足を踏み入れて三分以内に想像がついていた。
 言っちゃ悪いけど、活気というものがまるで感じられなかった。寂れているというほどひどくはないし、設備だって古ぼけてはいないのだけど、そこにある何もかもがちょっとずつ煤けた感じに見える。その証拠に道場生の名札を掛けるフックには空きが目立っている。祭日(九月十五日)の昼下がりなせいもあるかもしれないけど、道場で練習している人は一人もいなかった。
 ひょっとして道場選びを間違ったかな。
 そう思ったけれど、だからといって他に選択肢はなかった。ボクが通っている塾がここのすぐ近くにあるからだ。
 家族はボクが「空手をやりたい」と言い出したことに特に反対はしなかった――いや、もちろん腰を抜かすほど驚いてたし、姉貴はなんだか呆れた顔をしてた――けど、塾通いはちゃんと続けるというのがオーケーしてくれる条件だった。
 学校が終わって家に帰る。着替えて西鉄の三苫駅から宮地岳線に乗る。香椎に着いて塾へ。受ける授業にもよるけど終わるのは早くても七時とか八時。それから家に帰って違う方面にある道場に行くのは時間のロスがありすぎる。それに三苫・香椎間の定期券は塾用のがあるけど、それとは別に定期を買ってもらうのはさすがに気が引けた。仕事と接待(ホントかどうか知らないけど)に明け暮れる父親に送り迎えを頼むのはもっと気が引ける。
 そういうわけで、香椎以外の場所は都合が悪かったのだ。
 まあ、空手初心者(というより運動初心者)のボクにとっては、みんながバリバリにやっているところで相手にされなかったり場違いな雰囲気に顔を伏せたくなるよりは、ちゃんと指導者がついて一から教えてくれるところのほうがいいに違いない。ちょっと無理があるような気がするけど、そう自分を納得させることにした。
 師範代はそんなボクの思いになどまるで気づく様子もなく、淡々と月謝のことを説明していた。
 月謝のことははあらかじめ調べてあったし、ちゃんと用意もしてあった。入会金と二ヵ月分の月謝を入れた封筒を差し出した。師範代はそれが当たり前のような顔をしていたけど、口許が微妙に緩んでいるのをボクは見逃さなかった。
「じゃあ、これ。ご両親に承諾書、書いてもらってきて。それとスポーツ傷害保険の申し込み書も書いてもらわなきゃね。やっぱり格闘技だから、怪我することもあるし」
 師範代は次々に書類やパンフレットをテーブルに置いて、それを大判の封筒に入れた。
「あれ? 領収書の綴りがないな。ちょっと待ってて」
 ブツクサ言いながら向けられた背中はそれなりに大きかった。帯もちゃんと黒だ。道着の裾がほつれて糸が伸びているのが見えなかったら、少しはこの人のことを見直していたかもしれない。
「ここへはどうやって来るの? バス?」
 年季が入ったキャビネットを引っ掻き回しながら、師範代は言った。
「いえ、西鉄で。家は美和台なんで」
 それがどうしたというんだろう?
「君、三年生だよね。だったら佐伯って女の子、知ってるかい?」
「佐伯さん……ですか?」
 福岡市の中でも東区は団地が多くて、そのせいか、ボクが通う中学校は市内有数のマンモス校だ。ボクらの学年も八クラス、三〇〇人以上もいる。おまけにボクは今年の春に転校してきたばかりだった。

 他にもいろいろと拠所ない事情(正直、女の子とはあんまり上手く話せないとか、それ以前に転校生のボクにはそれほど顔見知りがいないとか)もあって、苗字だけで誰かなんて分からなかった。
「佐伯、なんていうんですか?」
「マナ。真実の真に奈辺の奈。奈良の奈でもいいけど」
 指で字を書いてみた。佐伯真奈。
 ――なんだって?
「ひょっとしてその子、背が高くて、髪が短くて、目つきがやたらと鋭い――」
「ああ、そうだね。ちょっとだけ上原多香子に似てないこともないかな」
 師範代の喩えをよそに、該当する人物の影が脳内スクリーンに像を結んだ。ボクは戦慄を覚えた。
「……そ、それってまさか、マナ・サップ!?」
「誰がマナ・サップだってッ!?」
 唐突な背後からの怒鳴り声に続いて、ゴツッという鈍い音と共に目の奥で火花が散った。
「いってえッ!!」
 思わず頭を押さえて振り返った。
 衝立から身を乗り出して手(と言うか、拳)を伸ばしていたのは、男と間違われるくらいのショートカットの道着姿の女の子だった。面長の整った顔立ちなのは否定しないけど、上原多香子は言い過ぎだ。
「あの……佐伯、さん?」
「いまさら遅いって。まったく、そういうことは本人に聞こえないように言いなさいよ」
「……だって、いるなんて知らなかったし」
「うるさい。男の子が言い訳しないの」
 彼女――佐伯真奈は憤怒の表情のまま、大股で衝立を回って近づいてきた。

 子供の頃は女子のほうが男子より成長が早いとはいうけれど、彼女はいまだに男子から打倒を叫ばれる長身を維持している。おまけにボクは座っているので、余計に見上げるような格好になってしまう。
 その強烈な仇名の割に、ボクは彼女のことをほとんど知らなかった。クラスが違うので(ボクは二組、彼女は七組)話したこともない。知っているのは空手をやっているらしいことと、各運動部の顧問がスカウト合戦を繰り広げたほどスポーツ万能で、しかもその全部を蹴ったという逸話くらいだ。
 それともう一つ。学年の中のちょっとワルそうなグループの面々も、彼女にだけは手を出そうとしない。出せばただでは済まないことを知っているからだ。
 ボクは友人の杉野から聞かされた、彼女の仇名の由来を思い出した。
 元ネタがボブ・サップで、語呂がピッタリだったのが理由なのは丸分かりだけれど、空手使いの彼女には別のファイターが充てられてもおかしくなかった。ニコラス・ペタスとかアンディ・フグは格好良すぎても、武蔵とか角田信朗あたりならネタとしても悪くない。
 実は彼女が”ザ・ビースト”扱いされているのは、デビュー・イヤーにサップがアーネスト・ホーストを圧倒したのと同じように、彼女が入学した最初の年に、幅を利かせていた三年生の不良少年を瞬殺したからだ。
 ちょっかいを出したものの手厳しく撥ねつけられた不良少年が、捨て台詞で言ってはならないことを口にした、というのが彼女が激昂した理由の定説だと、ボクは聞いている。
 不良少年が何を言ったのかは誰も語ろうとしないので、ボクも詳しいことは知らない。杉野がその話をしてくれているときに、たまたま廊下を通りかかった彼女の胸元(お世辞にも豊かとは言えない)を見ていたことと関係あるかどうかも分からない。命が惜しいので確かめたくもない。
「なんだ、いたのか」
 師範代はたった今、自分の背後で起こったことにまったく興味を示していなかった。
「いちゃ悪い?」
「悪かないが。ああ、彼、新しい練習生。同じ学校だったら気心も知れてるだろ。仲良くしてあげてくれよ」
 師範代は彼女に言った。彼女はこれ見よがしにフンと鼻を鳴らした。
「別に気心なんて知れてないけど……。ま、とりあえず、いたぶり甲斐はありそうね」
「おーい、ヘンなこと言うなよ」
「ジョークだってば。よろしくね、三浦くん」
「……ああ、うん、よろしく」
 やっぱり道場選びを間違ったな。
 月謝はまだテーブルの上にあった。
 今ならまだ封筒を引っつかんでダッシュで逃げられそうな気がする。でも、彼女は足もかなり速かったはずだ。いつか、クラスマッチのソフトボールでボテボテのゴロをことごとく内野安打にして、対戦相手から「イチローかよッ!!」と野次られていたのを見たことがある。一〇〇メートル十六秒台のボクの鈍足では到底敵いっこない。追われるウサギが逃げるのに失敗すれば、それは死を意味する。
 迷っている間に封筒は師範代の手の中に納まった。
 万事休す。
「三浦くん、こういうとこに通ったことあるの?」
 真奈は言った。声にどことなく意地悪な響きがあった。ボクはちょっとムッとしたけど、嘘をついても仕方がなかった。
「……ううん、ないけど」
「そう。じゃあ、特別にデモンストレーションを見せてあげるよ」
 彼女はそう言い残すと、スタスタと道場の隅のサンドバッグのほうに向かった。何をやるつもりなのか、ボクは彼女から目を離すことができなかった。
 軽いステップを踏んでリズムをとった。ボクは格闘技は見る専門だけれど、その分だけ知識や見る目には自信があった。彼女の身のこなしには――なんと言うか――実戦の匂いがした。流行りの言い方をするならオーラがあった。
 ヒュッという短い息吹に続いて、見ているこっちの骨まで軋みそうなドスンッという重い音が響いた。右のミドルキックを放ったのだと分かったのは、彼女が脚を床に戻したあとだった。その後も立て続けに蹴りが入った。サンドバッグがまるでダウン寸前のファイターのようにゆらゆらと揺れる。とても中学生の女の子の蹴りの重さじゃなかった。
「――セイヤァ!!」
 最後に一発、首を蹴り落とすようなハイキックがひときわ重い音をたてた。彼女はフーッと長い息を吐くと、揺れるサンドバッグを手で押さえてボクにニッコリと笑いかけた。
 おそらく親しげな笑みのつもりなんだろう。けれど、ボクには身動きのできない、あとは引き裂くだけの獲物を見つけたライオンの微笑にしか見えなかった。