清州会議

 

6月27日
 清洲城にて織田家の後継者についての会議が開かれる。

 織田家筆頭家老である柴田勝家が織田信長の三男-信孝を推し、羽柴秀吉が信長の嫡男-信忠の遺児である三法師(秀信)を推したことで後継者争いが起きる。
しかし、秀吉の明智光秀討伐における功績はあまりにも大きく、池田恒興、丹羽長秀が秀吉を支持したこと、信孝は神戸氏の養子に出ているので織田家の後継者としての正当性は三法師のほうがあると諭されたこと、信孝を後見人にする(信孝が三法師を預かる)という妥協案が出されたこと、などの理由で勝家はしぶしぶ折れた。

 信長の重臣の一人だった滝川一益は、信長の死を聞きつけた北条が挙兵したためその対応に追われ出席できなかった。(北条に領地を侵略されていることを責められ、出席を許されなかったとも言われる)

 信長の次男-信雄は後継者争いに参入することができなかったようだ。光秀討伐の功労がなかったからだろうか?
この信雄となんらかの接触をしていたと思われるのが秀吉だ。信孝と仲が悪かった信雄は駒として使えるとでも思っていたのだろうか?

 信長の四男に秀勝(幼名-於次/おつぐ)がいるのだが、秀勝は秀吉に養子縁組されているので、信長の後継者争いの対象にはならなかったようだ。


 秀吉は、勝家を説得するために信長の妹-お市の方(浅井長政の妻)も引き合いに出したのではないだろうか?
お市の方は、小谷城陥落(天正元年/1573年)後、清洲城で暮らしていた。清洲会議のときも清洲城に居を構えていたと思われる。
光秀を討ったことで実権を掌握しつつあった秀吉が、清洲城にいるお市の方に目を付けぬはずがない。
清洲会議のあと、お市は勝家と再婚。
(勝家とお市の結婚については、秀吉が仲介した説と信孝が仲介した説がある。もしかしたら、両者がそれぞれの思惑でそれぞれに仲介していたのかもしれない)

 

 清洲城会議で、三法師は安土城に移動することに決まっていた。
が、織田信孝は柴田勝家と滝川一益を味方に引き入れると、これを無視。三法師を清洲城に留め置いたままにした。

 

10月
 柴田勝家が滝川一益、織田信孝と組んで、羽柴秀吉に対する弾劾状を諸大名にばらまく。

 

10月15日
 羽柴秀吉は、養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主として信長の葬儀を行なう。

 

 

 信長家臣団に亀裂が入ってしまった。こんな時に外圧がないという歴史の不思議。

毛利も長宗我部も北条も動かない。ここで誰かが動いていれば、その後の歴史は大きく変わっていただろう。