1580年(天正8年)

 佐久間信盛、定栄(さだひで)親子に対して19か条の折檻状を送りつける。書面上の日付は8月12日
その内容は、

石山本願寺攻略を命じたのに何もせずに手をこまねいているばかり。その間、他の将たちは武勲をあげているというのに、石山本願寺に攻め入るわけでもなく、相談にも来るでもない。
そのうえ、勝手な振る舞いが多く、立派な振る舞いはひとつもない。
敵を平らげるか、討ち死にするか、どちらかにせよ。
頭を丸めて高野山に行き、赦しが出るのを待て。

というもの。

 その後、佐久間家は高野山からも追われ、佐久間家は散り散りになる。1582年1月16日に信盛が死去すると、その直後、織田信忠付きの家臣として定栄に帰参が許される。
定栄は本能寺の変後、茶人として秀吉に仕え、秀吉没後は家康に召抱えられて生き延びる。

 

8月17日

 林秀貞(ひでさだ/もしくは通勝-みちかつ)が、25年前に織田信行(信長の弟)を擁立したことを理由に追放。

 安藤守就(もりなり/もしくは範俊-のりとし)親子は、甲斐の武田勝頼と内通したということで追放。

 丹羽氏勝(うじかつ/もしくは右近太夫氏勝)も追放。罪状は、25年前に織田信次(信長の叔父)が織田秀孝(信長の弟)を殺害した一件に組していたこと、甲斐武田に内通したこと。

 

 本能寺の変が起きる二年前、本願寺討伐が終ったことを機に重臣の中から追放者が出る。

佐久間信盛に関しては、本願寺を落とせないばかりか茶会ばかり開いていたというから、納得出来る要素もあるが、このときの佐久間は織田軍の筆頭重臣。与えられていた兵力も一番であったらしい。いわば、織田軍の№2。それが追放である。ただ事ではない。

林秀貞の場合は、「なぜ今頃になって?」という難癖を付けての追放。謀反の匂いを嗅ぎつけたのか、家臣として見限ったのか、不思議なところである。

安藤守就は、まさに謀反を企てていた可能性が高いのだから納得はいく。

丹羽氏勝については、古い話を持ち出しながら、クーデターの疑惑ありと一刀両断。

 

 こうしてみると、信長の周りにはクーデターの匂いがプンプンしていたのかもしれない。
下克上の世であるだけに、信長という覇王を恐れながらも、誰しもが頂点に君臨することを夢見ていただろう。誰もが、チャンスがあれば信長を討とうと考えていた可能性もある。
もしかしたら、水面下では信長包囲網が出来上がっていたのかもしれない。ある者は他勢力と組もうとし、ある者は他者を巧みに追い込んで信長の寝首を取らせようと画策し、またある者は自分の仕える武将に天下を取らせようと暗躍していたとしたら・・・。
信長は、そういう匂いの一部を察知して大追放劇に踏み切ったのかもしれない。

 信長に対してのクーデターといえば、荒木村重が有名である。

1578年(天正6年)10月、突如として信長に対して反旗を翻す。
しかし、荒木村重は迷いながらの謀反だったらしく躊躇していた。だが、高山右近の「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」という一言が効いて決起。
村重と旧知の仲でもある黒田孝高(如水/官兵衛)が説得に赴くが、監禁されてしまう。
篭城し一年ほど抗戦したが、次第に戦況は不利になっていき、城を捨て逃げることになる。
信長軍に捕まった一族と家臣、領民は虐殺された。
村重自身は逃げ延び、信長没後、茶人として生きた。