芸能について その② ~レコードとラジオと映画とテレビ~

芸能というものの歴史について調べてみよう!
というお話 その② であります。


世界の各地で、民謡、舞踊、話芸などが様々な形で発展。
そんな中で、革命的な事が起こります。
それが、

音楽の拡散
音を移動させることができるようになると、音楽は世界規模で融合・調和・発展の加速度が一気に上がった。
音を移動させるシステム、すなわちレコードの登場である。

離れた場所への伝達方法として、古くは狼煙、光の点滅などが使われていた。
そこから、電気信号、電波信号などへと発展していった。

1857年
 フランス人エドゥアール=レオン・スコット・ド・マルタンヴィルによってフォノトグラフが発明される。
 ただし、フォノトグラフは、音の波形を記録することは出来ても再生することはできなかった。
1876年
 スコットランドのアレクサンダー・グラハム・ベルが電話を発明。
 音を遠方へと伝えることができるようになった。
1877年12月6日
 フォノトグラフを基にアメリカ人のトーマス・アルバ・エジソンが改良、開発して蓄音機という音の記録媒体を発明。
 このことにより、音を移動させる(持ち運べる)ことが出来るようになる。
1886年
 ドイツのハインリッヒ・ヘルツにより電波が特定され研究が始まる。
1887年
 エジソンの蓄音機の記録媒体は円筒形だったが、ドイツ出身のユダヤ系アメリカ人のエミール・ベルリナーによって円盤型の蓄音機グラモフォンが発明される。~これがレコードの原型~
1895年ごろ
 イタリアのグリエルモ・マルコーニによって実用的な無線送受信機が開発される。
1895年
 エミール・ベルリナーがベルリーナ・グラモフォン社を創設。
1900年ごろ
 ラジオが商業的に普及していく。

1901年

ベルリーナ・グラモフォン社を母体としてビクタートーキングマシーン(現:RCAビクター)という会社が作られ、のちに巨大レコード会社へと発展していく。


音の記録媒体は、レコードを経て、その後、光媒体であるCD、磁性体を使ったHDD、半導体を使ったSSD(またはFM)などへと発展していった。

音声を記録するシステム(レコード)の開発は、そのまま動画を記録するシステム(フィルム)の開発へと繋がっていく。

動画(映像)の拡散
古くから、いわゆるパラパラ漫画のようなものは存在していたとは思うが、
記録的には1800年ごろに単純な装置を使って作られたフェナスキストスコープあたりが起源と言われている。

パラパラ漫画の原理で、フィルムの絵を機械を使って一定速度で送り出すシステム(キネトスコープ)を作ったのが、またもやエジソンである。
1891年
 トーマス・エジソンがキネトスコープを発明。
1895年
 フランスのオーギュストとルイのリュミエール兄弟が、スクリーンに映像を投影できるシネマトグラフを発明。

このふたつが映像の記録媒体の始まりである。
ただし、この時点ではまだ映像のみで、音声は同時に記録・再生できないものだった。

映像を再生し、スクリーンに映し出す「映画」は見世物として大成功を収める。
1900年ごろのフランス、パリで、映像に合わせて人が声をあてた映画が上映される。
映像フィルムとレコードと同期させる方法で映像に音を付ける試みもあったようだが、同期させるのが難しかったそうだ。
(フィルムやレコードを安定した速度で再生する技術が無かったということなのだろうか?)
なので、サイレント(無声)映画の時代は、講談師(活動弁士、活弁士)や楽団などが映像に合わせて、セリフやナレーション、音楽や効果音などを付けていた。
ある意味、オペラ方式と言えるのかもしれない。
オペラは1600年頃に演劇から派生したものである。衣装を身にまとった演者が歌を交えて演技をし、楽団が音楽を演奏するスタイル。


1926年
 映像フィルムとレコードを同期(自動再生)させるシステム(トーキー)が構築されていく。
1928年
 映像フィルムに音声も記録できるサウンドトラック方式が作られる。
1931年
 日本でも初の本格的トーキー映画「マダムと女房」が公開されている。

その後、白黒だった映像がカラーになり、現在の映画の形になっていった。
カラー・フィルムは1932年に三原色式テクニカラーが開発されてから普及していく。

娯楽の中心となっていた映画だったが、テレビにその座を明け渡すことになる。
家に居ながら(当初は「近所で」だが)映像が見られるテレビは普及を続け、今では世界的に一家に複数台所有しているのが当たり前になった。
テレビの映像も、最初は白黒だったがカラーになり、アナログ放送からデジタル放送へと変化している。

テレビの登場
1897年
 ドイツのフェルディナンド・ブラウンがブラウン管を発明。
1907年
 ロシアのボリス・ロージングがブラウン管を使ったテレビ受像機を考案。
1925年
 スコットランドのジョン・ロジー・ベアートが、ある程度見分けのつく映像を映し出せるテレビ送受信機を発明。
1926年
 日本の高柳健次郎がブラウン管方式のテレビの実験に成功。
1928年
 ジョン・ロジー・ベアートが、カラーテレビの公開実験に成功。
1929年
 イギリスとドイツでテレビの実験放送開始。
1931年(~1936年)
 アメリカのウラジミール・ツヴォルキン(ロシアからの亡命者)が、テレビカメラの部品であるアイコノスコープを発明。
1932年
 イギリスの放送局BBCが世界初のテレビの定期放送を開始。(正式な開局は1936年)
1939年
 日本のNHK放送技術研究所がテレビの実験放送を開始。
 第二次世界大戦(1939年~1945年)の影響で日本のテレビ放送の研究はとん挫。
1951年
 アメリカのCBSがカラーテレビ放送を開始。
1953年
 日本のNHK東京テレビジョンがテレビ放送開始。
1956年
 日本のNHKがカラーテレビ実験放送を開始。
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1960年
 日本でカラーテレビの放送が本格的に始まる。
1988年
 イギリスのBBCがデジタル放送を開始。
2003年
 日本でデジタル放送開始。


こういった経緯で誕生し普及していったテレビは、まさに芸能の玉手箱だった。
音楽、舞踊、演技などといった娯楽のすべてがテレビ放送に乗せられて人々に届けられた。

芸能に携わる者たち(芸能人/アーティスト/クリエーター)は、古くは貴族などの裕福な階級のものをパトロンに持ったり、一座を組んで興行を行ったりして収入を得ていた。
そういった芸人たちを取りまとめていた一座の頭目(座長もしくは興行主)というのが、ある意味、芸能事務所(プロダクション)はしりと言えるかもしれない。
そのうちに、地域を取りまとめている者(実力者)などに場所代を収めるなどの関係から、間に入って交渉を専門に行う興行師(プロモーター)が現れるようになる。
地域を取りまとめている者(表と裏の実力者の両方)そのものが興行師となったりもしたようだ。


次回からは、日本の芸能界の複雑に入り組んでいる人間関係について取り上げます。
つづく!

参考資料
Wikipedia