【違い鎌な旅 岐阜県】 平岡頼勝墓所・禅台寺 | 小早川秀秋日記 ~ボクはここにいる~

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古戦場の町関ケ原の史跡ガイド・観光案内・歴史語り部の関ケ原組創設者関ケ原おもてなし武将小早川秀秋。
2018年3月をもって一旦関ケ原を去りました。(2017/11/22日記参照)
関ケ原組からの嫌がらせと脅迫により現在定期活動はしておりません。
※写真の加工・無断転載禁止

小早川秀秋公を巡る違い鎌な旅

その二

 

●平岡頼勝の墓・禅台寺(岐阜県可児市)

 

平岡頼勝といえば、関ケ原で暗躍しまくった小早川家臣と言ってもよいだろう。

黒田官兵衛殿の姪(一説では娘)を室とし、黒田家との繋がりがあった故、関ケ原での東軍とのやり取りはほぼ平岡が主導だった。東西両軍に出した人質も平岡家の者だった。

関ケ原の後、岡山では海側の守りとして重要な下津井城を任せた。

最期まで小早川家に仕えたとも言われているが、可児市史や寛政重修諸家譜では途中で出て行ったことになっているね。

伝承だとボクが死の間際に稲葉を呼べと言ったので慌てて呼んだのは平岡とも言われているがその辺は伝承だからなぁ・・・

今回は平岡の墓所の紹介だ。(金吾)

 

 


平岡頼勝殿の墓がある禅台寺は岐阜県は可児市にある。

可児駅から歩いて20分くらい、途中には岐阜県の郷土料理『鶏ちゃん』で有名なお店もあり墓参りした帰りに食すのが我らの恒例だ。

車で行くのなら多治見インターを下りて可児バイパスをひたすら走る。お寺の駐車場をお借りして停めよう。ただし墓所前の駐車場は必ず頭から入れましょう。

 


禅台寺はこの辺りを見渡せる高台の上にある。駅から歩いて最後に迎えるトドメの急な上り坂。

鎌倉時代末に西帷子真禅寺開山の鈍庵和尚が結んだ草庵が起源とされ、慶長13年(1608年)に平岡家の菩提寺とされ山号を平岡山と改めた。

すぐ近くの坂祝にある河尻秀隆殿の菩提寺・長蔵寺と外観や物の配置がよく似ている気がするのは気のせいではないと思う。

 

平岡殿の墓は本堂の西側の坂を上った更に高い所にある。

石垣を組み、その上に石の柵で囲った五輪塔がある。墓の総高は68センチと稲葉と比べて小ぶりだ。

四角の地輪には

『前石州大守

心月宗安大居士』

とだけある。没年月日は何処にも無い。

地輪の後ろの面が明らかに削られた跡があるのが気になる。他の面は綺麗に平なのに後ろだけごつごつ。何を隠したのだろうか。

可児市史によると位牌は禅台寺さんにあるそうだが筆者はお会いしたことはない。

 

讒言により流浪せしところ、山岡道阿弥、東照宮の恩命をうけたまはり、今よりのち憚ことなく諸国を經歴すべきのよし、これを傳ふ。九年八月晦日美濃國可児、栗、中島、大野、不破、加茂、席田(むしろだ)、本巣、山縣九郡のうちにをいて、一萬石の地を宛行はるゝのむね御朱印を下され、十年伏見にをいて東照宮に拜謁し、御麾下に列し、後可兒郡徳野を居所とす。十二年二月二十四日卒す。年四十八。心月宗安高善院と號す。徳野禪臺寺に葬る。(寛政重修諸家譜)

 

にもあるように可児市の記録では小早川家を途中で出たことになっている。

寺の解説板の旧版は家譜の内容で書かれていたが、2018年に作り替えられた物には秀秋没後流浪となったとある。平岡殿の行動ははっきりとは分かっていないということだろうか。




岡山での知行やお寺への書状を見ると杉原殿と稲葉殿の名若しくは二人の連名で出されており平岡殿は見当たらない。下津井の守りで忙しかったのだろうか。

 

秋に紅葉が綺麗な静かな墓所です。(家臣)

 


稲葉と真逆だよね。江戸の線路沿いだから賑やかだもの。

稲葉のはボクよりも大きいし。

 

鶏ちゃんは本当におすすめ。白飯がすすむにんにくの効いた鳥と野菜の炒め物。ガスコンロにフライパンのままで出てきた時はちょっと驚いたが禅台寺の近くの店はそういう形式らしい。自分で焼くのだよ!!(* ̄∇ ̄)ノ(金吾)



《禅台寺》

509-0203

岐阜県可児市下恵土2838-1

 JR太多線 可児駅より徒歩約20分

駐車場あり