毛利の関ケ原展 | 小早川秀秋日記 ~ボクはここにいる~

小早川秀秋日記 ~ボクはここにいる~

古戦場の町関ケ原の史跡ガイド・観光案内・歴史語り部の関ケ原組創設者関ケ原おもてなし武将小早川秀秋。
2018年3月をもって一旦関ケ原を去りました。(2017/11/22日記参照)
関ケ原組からの嫌がらせと脅迫により現在定期活動はしておりません。
※写真の加工・無断転載禁止

長府藩初代藩主毛利秀元生誕440年記念特別展
『関ヶ原 天下分け目と毛利氏の戦い』


こちらの講演会にあわせて下関へ展示を観に行ってきました。

講演会は今まであまり触れられなかった毛利家の世代交代と輝元殿の後継者を巡る秀元殿の所領問題にだいぶ触れていました。

纏めると、
隆景さん亡くなって毛利こんなにぐちゃぐちゃなのに(殿下に原因あり)ぐちゃぐちゃにしたまま殿下亡くなるなんて…ふざけるなー!!
ですね。
輝元殿派と吉川殿派と秀元殿派(隆景さん派)の毛利の分裂ぷりが…

元就公が作りあげた三本の矢体制は隆景さんと穂井田元清殿が亡くなったことで崩壊したと見ていいと思う。
ボクら孫世代や元就公の五男以下には三本矢の思いは継がれなかった。

秀元殿と輝元殿の間に生まれた後継者を決めることから始まった溝は思いの外深かったのかもしれない。
秀元殿には豊臣寄りな所が若干見られる。
秀元殿の領地である下関を歩いていてもそれは感じられた。
今まで毛利の領地もまわったけれど、毛利家所縁の建物って大体が一文字に三つ星の家紋がかなり沢山入っていて毛利毛利している物が多い気がする。だけど秀元殿の毛利度は控えめだ。
時々桐紋がちらりと出てくる所が毛利家としては違和感を感じる。

毛利で天下を狙う気配がある輝元殿。
元就公の毛利を守りたい吉川殿。
小早川とは名ばかりの豊臣の子秀秋。
元就公の毛利ではなく、時代にあわせた毛利で繋げていきたい秀元殿&隆景さんによくしてもらった元就公の下の方の子供たち隆景さん派。
自分の一族を滅ぼした毛利に仕え、隆景さんという手綱が無くなった何を考えているのか分からない恵瓊殿。
皆見ている方向がばらばらなんだ。
隆景さん・穂井田殿が亡くなったのと輝元殿に実子が生まれたのと殿下が亡くなったのが時期を置かずに来たのは不運といいますか、巡り合わせといいますか…毛利家には厳しいものだった。

この講演会でも小早川秀秋、問い鉄砲で脅された、途中で裏切った話は見直しが始まっていることが話されて個人的に心の中で拍手!!
本州の西の端でも拡がれ~!!
最初から東軍なんですって。
脅しの鉄砲は届かないし無意味なんですって。
覚えて覚えて♪


展示の方はなかなか濃かったね。
毛利一族の肖像画が一堂に会すなんてそうそうないと思うよ。

小早川隆景椅桂仮寝之図の説明の書き添えが
『景さま、陣中にてお疲れのご様子』って書いてあって・・・
景さまって!!(ノシ *>ω<*)ノシ
流石秀元殿の民!!というか穂井田様のご子息秀元殿の民!!
これ作った方隆景さん好きでしょ!?好きだよね?ボクも好きだ!!


毛利の民には堪らない展示だよ。
入り口の旗の小早川秀秋が東軍側にあるのににやり(。-∀-)