日精上人の「造仏読誦論」に関する文章の紹介 3
『家中抄』に於ける日精の『造仏論』
大石寺59世日亨上人は、
「正本猶誤脱多し間々此を改むといへども強いて悉くに及ばず、又説、正史料に背くものは止を得ず天註に批訂する所あり、先師に対して恐れありと云へども却つて是れ本師の跋文に合ふものにして、地下の冥諾を受けんこと必せり」(富要集5巻180-1頁)
と仰せられて、『家中抄』(『富士門家中見聞』)には約二百力所の頭注を加えられています。
『家中抄』は、『富士門家中見聞』と名付けられた日精上人著作の書物の略称で、上、中、下の3巻があり、上巻の末尾に寛文2(1662)年12月(祖滅380年)に著述完成させたとあります。
日精上人は寛永9(1632)年に相承を受け登座されたと云われていますが、実に登座30年後の此の書物に於いても、「造仏読誦」論は抜けていなかった事が間接的に証明されているのです。
「日興云く聖人御立の法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊とせず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可し即自筆の本尊是なり(引用 日興上人の『富士一跡門徒存知の事』1606頁)
(日精の自論)是本尊問答抄、妙法曼荼羅供養抄の二文意なり、草案(五人所破抄) 並びに日尊実録、本門心底抄、日代状等は余の文意なり」(日精 記『富士門家中見聞上』富要集5巻166頁)
※諸御書を二義(仏像と妙曼)に立て分ける日精の解釈は、登座後の記述にも明らかに残っており、日興上人の『門徒存知事』のこの妙法曼荼羅本尊義は、本尊問答抄、妙法曼荼羅供養抄の二文の意を受けたものであり、五人所破抄、日尊実録、心底抄、日代状等は、別の意でありいわゆる造仏本尊義なのだ、と解説しているのです。
此処で日亨上人の頭注はありませんが、日精は造仏本尊義を容認しているのです。
「『日興所立の義を盗み取り己義と為すの輩出来せる由緒条々の事』(中略)
『少輔房日高は去る嘉元年中以来日興が義を盗み取り』(中略)
『伊予阿闍梨・・・ 日興が義を盗み取り四菩薩を造り副ふ彼の菩薩像は宝冠形なり』(中略)
『民部阿闍梨同じく四脇士を造り副ゆ、彼の菩薩像は比丘形にして納衣を着す』(中略)
『甲斐の国肥前房日伝・・・日興が義を盗み取り盛んに此の義を弘通す、是又四脇士を造り副ふ」』(中略)
(日精の自論)私に云く此文並びに原殿御返状等は、報恩抄、唱法華題目抄、観心本尊抄、宝軽法重抄等に依り給へるなり」(『富士門家中見聞上』富要集5巻166-7頁)
※大聖人正統の妙法曼荼羅本尊義に対し、この興師四菩薩造立の義は、是等大聖人の諸御書に依るのだとして、日精は隨宜論と同じく諸御書を法本尊義と造仏本尊義の二義に立て分けて解釈する底意を覗かせています。
日辰『祖師伝』を巡る造仏論争
『祖師伝』本文
「此の事一躰の仏大聖の御本意ならば墓所の傍に棄て置かれんや、又造立過無くんば大聖の時、此の仏に四菩薩十大弟子を何ぞ造り副へられざるや、御終焉の時彼の仏を閣いて件の曼荼羅を尋ね出され懸け奉る事顕然なり衆中勿論なり、惣じて此くの如きの事等御書の始末を能々了見有るべく候か、二代の聖跡数通の遺誡是虚しからんや、此くの如き条々示し給はる事返す返す恐悦に存じ候、向後に於いては申し承はるべきの由存じ候なり、併ら面謁を期し候、恐々謹言。
康永三甲申八月十三日 日代在判
謹上 三浦阿闍梨御房
謹て日代の返牒を案ずるに云はく、大聖人法立の次第、故上人の御真筆棄て置かるゝ事無念の事なりとは、代公御遷化記録を指すか、故上人の日興御真筆なればなり、日尊立像等を除き以つて久成釈尊を立て玉ふが故に記録に背かざるなり、又云はく仏像造立の事、本門寺建立の時なり文、然るを日尊本門寺建立の時に先つて仏像を造立し玉ふ是れ一箇条の相違なり、過罪に属すべきや不やの論は観心本尊抄、四条金吾釈迦仏供養抄、日眼女釈迦像供養抄、骨目抄唱法華題目抄等を以つて之れを決すべきか、若し日尊実録日大自筆無んば自門他門皆日尊已に立像釈迦並に十大弟子を造立しぬと謂ふべし、故に日尊の末弟深心に当に実録を信ずべき者なり。」(日辰 記『祖師伝 日印の伝』富士宗学要集5巻51頁)
『家中抄』中の日辰『祖師伝』引用文
「此の事一躰仏、大聖の御本意ならば墓所の傍に立て置かれんや、又造立過ち無くんば何ぞ大聖の時此の仏に四菩薩十大弟子を副へ造られざるや、御円寂の時彼の仏を閣き件の漫荼羅を尋ね出され懸け奉る事顕然なり勿論なり、惣じて此くの如き事等御書始末を能々了見有るべく候か、二代の聖跡数通の遺誡豈虚からんや、此くの如き条々示し給ふ事恐悦に存じ候、向後に於ては申し承はるべく候由存じ候、併ら面謁を期し候、恐々謹言。
八月十三日 五十一歳 日代在判
謹上宰相阿闍梨御房
謹で日代返牒を案じて云はく、大聖人法立の次第故上人の御真筆等棄て置かる事、無念の事なりとは、代公御遷化記録を指すか、彼の記録は故上人日興御真筆なればなり、日尊立像等を除き久成釈尊を立つる故記録に背かざるなり、又云はく仏像造立の事本門寺建立の時なりと然るに日尊本門寺建立の時に先だち造立仏像は是れ一ケ条の相違なり、罪過に属すべきや否やの論は観心本尊抄、四条金吾釈迦仏供養抄、日眼女釈迦像供養抄、骨目抄、唱法華題目抄等を以て之を決すべきか、若し日尊実録日大筆無んば自門他門皆日尊已に立像釈迦幷に十大弟子を造立すと謂つべし、故に日尊の末弟深心に当に実録を信ずべきものなり」(日精 記『家中見聞下 日印伝』富要集5巻238-9頁)
☆日亨上人の頭注「本師造仏の底意を顕す」(『家中見聞下 日印伝』富要集5巻238頁)
※日精上人は、日辰の文章をほぼ引用、日尊の造像に対して御遷化記録に背いていないと造仏を肯定しています。
「日尊日印日大の三師の伝は全く日辰上人の祖師伝を書写する者なり」(『家中見聞下 日大伝』富要集5巻239頁 最後行)
と書かれている通り、堀日亨上人は、日精の家中抄が祖師伝の引用である事を十分承知しており、両文に多少の相違がある事まで熟知されています。
日亨上人が何故、引用文に頭注「本師造仏の底意を顕す」を加えられたのでしょうか。
それは造像家日精が、祖師伝のこの記述を正義正論(日精同意の文)として家中抄に引用しているからなのです。
その証拠に家中抄日興伝の末文には、
「日辰祖師伝は多くは西山の説を記して御筆に違する事あり、(中略)其の後御筆本尊並びに遺弟の書籍記文等を拝見するに諸伝相違の事甚だ多く亦諸書に載せざる行相亦幾許ぞや、爰を以て今御筆を先として遺弟の記文取るべきものは之を録し諸伝の善説には之に順し、善ならざるは頗るために改め易へ次第前後をただす」(『富士門家中見聞上 最終章』富要集5巻180頁)
とあり、すでに日精は家中抄の述作にあたって、諸伝の善悪を選び、是とするもののみを取って記述している事がわかります。これは家中抄述作における日精の基本姿勢であり、故にこの日印伝の引用も当然善説と判断したものであって、同書内に明解な反論を記載しないばかりか、日精の強烈な主張となっているのです。
だからこそ日亨上人は、日精の本心に「造仏主義が存在している」と批判しているのです。