九識論
上図は心層をイメージしたもので、外層から内層に向かいそれぞれ
表層 五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)
第六識(意識)
第七識(末那識)
第八識(阿羅耶識)
最深層 第九識(阿摩羅識、根本浄識)
と、日蓮仏法では五層が説かれている。
識とは対象を認め、その異同を知る作用を持つ心の働きという意味である。
天台大師の摩訶止観に「境に対して覚知すること、木石に異なるを心と名づけ、心に次いで譸量するを名づけ意とし、了々に別ち知るを識となす」とあり、
日蓮大聖人の御義口伝(730頁)に「我観一切普皆平等とは九識なり無有彼此とは八識なり愛憎之心とは七識なり我無貪着とは六識なり亦無限礙とは五識なり我等衆生の観法の大体なり」と、薬草喩品の「我観一切普皆平等・・・亦無限礙」の六句の文を5箇の大事の五番目として例示し、以下の様に九識を述べておられる。
我観一切普皆平等とは九識なり⇒我一切を観ること、普く皆平等にして・・・仏の知見は九識である。
無有彼此とは八識なり⇒染浄の二法を含み彼此の区別がある相対的判断は八識である。
愛憎之心とは七識なり⇒深く思慮して判断するもいまだ愛憎の心が存在するのが七識である。
我無貪着とは六識なり⇒如何に意識し、正確に判断しようとしても執着心抜けきれないのが六識である。
亦無限礙とは五識なり⇒意識のない五根それ自体の識別なので感覚的に行動することになり、動物と変わりなく障礙が最も多いのが五識である。
我等衆生の観法の大体なり⇒上の五つの識が、我々衆生の物の見方の大体である。
五識
「目、耳、鼻、舌、身(皮膚)」の五官を用いて「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識」による識別を一纏めにして五識という。対象は現在の事柄に限られ、
結果として、
・生き馬の目を抜く程の変化激しい現代社会では、素早く対応する為に、思考を停め動物的感覚で即決即断するのがこの識である。
・直感で判断する心情から、物事に感動する暇もなく、ユトリも無い生活に陥る。
・自分に直接関係しない他の事には無関心となり、冷淡になる風潮に繋がる。
六識
六識は意識、五識から入った情報を元にしてイメージを形成し、物事を意味付ける。過去の記憶、未来の予測を加えて、総合判断を行う領域と言える。知性・理性に基づく思考や価値判断を自身で把握する。
・例えば、食べ物を口にした時、辛い・甘いと感じるのは五識だが、美味しい・不味い、と判断するのがこの第六識の意識になる。辛いのが好きな人は美味しいと感じ、辛いものが嫌いな人は不味いと思う。苦しい・楽しい・善いこと・悪いこと、といった判断もこの意識で行う。
七識
仏法では六識の奥に無意識の領域に至る第七識の末那(マナ)識を説いている。
・人間は、目覚めて活動している時だけ物事を感じ考えているのではなく、無意識の心の働きとして睡眠時も思いを巡らしているらしい。深く思索し、意識の奥でたえず活動し続ける心の作用、末那は考えるという意味があり、未還識、思量識とも呼ばれる。
・自らのアイデンティティに思いを巡らす、いわゆる自分が自分であることを確認する、自己同一性を保持する領域である。末那識の働きによって自我を確立するということは自我が小我になり自己を中心に思考し他者を排除する傾向が発生し、エゴイズムに繋がる危険性もある。「いつも元気で、今の生活を変えることなく暮らすことができる」「私だけは何も変わらない」(不変の我)と錯覚し、若さの驕り、健康の驕り、生の驕りが生じるが、世に常なるものはなく、やがて失う時が来ることを、頭で分かっていても受け入れ難い。
・自己を確立する領域(根源的自我)は、自己に執着する領域であり、様々な煩悩に汚染されるので汚染識という別名もある。暴力性や貪欲性、慢心や不信などの煩悩は末那識から生まれる。末那識には、煩悩だけではなく、慈悲や智慧、信や正見等の多くの善心も輝いている。善心が現れると幸せを感じ良い行いを積み重ねていくことができる。煩悩が満ち溢れる領域ではなく善心が輝く領域としなければならない。
・末那識は、高度な精神活動ながら、問題は、そこにある自分にしがみつく「我執」であり、意識でコントロールできないことだ。末那識を細分すると、「我癡(がち)」「我見」「我慢」「我愛」の四つの煩悩があり、
いずれも自分への強いこだわり(我執)が原因になっている。この我執によって、悪いとは解っていても、自分を曲げられなく、自身を縛りつけ、本来の自分よりも狭くて小さい範囲に自分を閉じ込めてしまうことである。

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