「立正大師」問題 1
要するに日蓮正宗の総本山第五十七世日正上人が、謗法の僧たちと仲睦まじく写真におさまった謗法同座の証拠写真である。それだけではない。この写真を撮った日に、総本山第五十七世日正上人は、身延山の日蓮宗管長磯野日筵の導師に従い、他の邪宗の僧らとともに勤行まで一緒にしていたのだ。総本山第五十七世御法主上人猊下である日正上人は、どうして身延の管長に従って勤行唱題をし、仲良く写真に納まったのだろうか。
「日蓮系各派」の管長が連名で、大正11年9月11日、天皇より日蓮大聖人に大師号を賜りたいと請願するために集った。即ち、「伝教大師」「弘法大師」等と同様の「大師」号がほしいと連署して願い出たのである。
「日蓮聖人大師号隆賜請願」と題する請願書に署名した各派管長は以下の通りである。
日蓮宗管長 大僧正 河合日辰
日蓮正宗管長 大僧正 阿部日正
顕本法華宗管長 大僧正 本多日生
本門宗管長 大僧正 瀬*島日濟
本門法華宗管長 大僧正 尾崎日暲
法華宗管長 大僧正 津田日彰
本妙法華宗管長 大僧正 清瀬*日守
日蓮宗不受不施派管長 一等上座 釋日解
日蓮宗不受不施講門派管長事務取扱 権大僧正 佐藤日柱
この請願書に応え、同大正11年の10月10日、宮内省より
「日蓮宗宗祖日蓮へ諡號宣下候間來ル十三日午前十時參省可有之候也」
との知らせが、各派管長宛に届いた。
日蓮大聖人御入滅の日にあたる同年10月13日、日蓮宗管長磯野日筵、日蓮正宗管長阿部日正、顕本法華宗管長本多日生、本門法華宗管長尾崎日暲、本門宗管長瀬島日濟代理井上日光、法華宗管長津田日彰代理荒川日治、本妙法華宗管長清瀬日守代理蓮池順良、日蓮宗不受不施派管長釈日解代理鷲日耀の八人は、宮内省に参省し、宮内大臣より宣下書が各派管長に下された。
大師号は「立正大師」とされた。添え状は次の様に書かれていた。
「 日蓮宗各派管長
今般 特旨ヲ以テ其宗宗祖日蓮へ大師号宣下候事
大正十一年十月十三日
宮内省」
「宣下書」および添え状を下された後、各派管長を代表して、顕本法華宗管長の本多日生が宮内大臣より「謹話を承り」、一同は宮内省を退出、築地水交社に向かった。
水交社とは、海軍将校のために社交・共済を目的にした団体である。同様なものとして、陸軍には偕行社があった。この築地の水交社で、日蓮宗管長の磯野日筵を導師として後の七人がそれに従い、寿量品を読経し唱題を行なった。日蓮正宗法主の阿部日正上人が、日蓮宗管長の磯野日筵と顕本法華宗管長の本多日生との間に立って写っている、この問題の写真は、宣下書を下された大正11年10月13日のものである。
「金口嫡々唯授一人血脈相承」を受けて登座しても、日蓮大聖人の生命も日興上人の精神も自動的に流れはしない。肝心なのは、本人の信心である。
日蓮正宗法主の阿部日正上人は、大師号を請願した大正11年の秋に下顎にできた悪性の腫瘍が原因で、翌年大正12年8月18日に逝去された。法主であっても謗法を犯せば仏罰厳然たるものがある。
次期法主は、日柱上人(第五十八世)派と日開(第六十世)派の争いとなった。日正上人は、日柱上人への相承を日開派より妨害され、相承を病床より信徒を介して日柱上人に付嘱された。いうなれば、密使を介しての相承であった。

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