創価学会の出現によって、開始された行事や改善された出来事を紹介します。
登山会
経済的に困窮していた宗門は、大石寺の観光地化を計画していた。もっとも、世間から見向きもされない荒れ放題の寺を観光客に見せて、お金をむしり取ろうというのだから、図々しい話ではあった。しかし、これを聞いて驚き、悲しんだのが戸田第二代会長だった。宗門の困窮を救うためにただちに登山会実施の準備をした。
1952年(昭和27年)10月より月例登山会が開始された。10月4日、5日の両日に行われた第1回登山会には、380人が参加し、学会伝統行事の記念すべき足跡を印した。第2回は、翌11月8日、9日にかけて実施され、参加人員も600人へと増加していった。
当初の遠方登山者は、夜行列車で一般客に混じっての移動だったが、その後専用列車やバスを連ねて運行するようになった。境内の二箇所に多くの売店が次々でき繁盛してきた。学会の月例登山会の参加人員は、延べ7000万人以上に達している。
ところが、1991年(平成年) 日顕は、C作戦の一環として、長年行なわれてきた月例登山を廃止して、所属寺院の証明を必要とする「添書登山」の強行に及んだ。大御本尊を利用して、創価学会から会員を掠め盗ろうとしたのだ。本来なら、そのような大幅な改正を行なう場合は、その改正による社会的・経済的影響を考慮しなければならない。宗門の一方的な添書登山への変更により登山者が激減した。その為に経営が行き詰まったことを苦にバス会社「大富士開発」副社長が自殺してしまった。
戸田会長の英断により、大石寺は経済的に救われただけでなく、その信仰を守ることができたのである。それなのに、その大恩を日顕は仇で返して、自殺者を生むという社会的問題を引き起こしたのである。宗教者として、その責任は重い。
創価学会は、約40年間、登山会の絶対無事故運営を推進してきた。しかし、宗門が独自の「添書登山」を行うようになってから、3年ですでに3件もの死亡事故が起きている。平成3年11月、東京のHさん(69)=有明寺=が近くの山から腐乱死体で発見された。また、4年11月には、茨城のIさん(77)=本妙寺=が総坊売店裏の道路で車にはねられ、死亡。さらに5年6月には、岡山のTさん(89)=究竟寺=が総一坊の階段で転倒し、死亡した。これらの事故はすべてお年寄りが犠牲者。弱者に対して、安全面が確保されていないことが図らずも露呈された出来事だった。
学会を“カット”した宗門が、再び、大石寺の観光地化を目指すのも当然の成り行きかもしれない。
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