C作戦に関する有用な資料を、縦書きを横書きに、年月日、頁数と見出しはアラビア数字に変更し、他は原文のまま紹介します

 

C作戦後20年_日顕敗北


10-6  破門以降、学会は大発展。三百になろうとしている池田名誉会長への名誉学術称号

坂道を転げるように衰退する宗門とは対照的に、創価学会は破門以降、大発展している。

破門当時、百十五カ国・地域だったSGIの陣容は、今や百九十二カ国・地域へと大拡大し、世界宗教として世界から信頼を得ている。

「破門通告書」が学会本部に届いた平成31129日、アフリカの全駐日大使、二十六カ国からなる「アフリカ外交団」の総意として、池田名誉会長に「教育・文化・人道貢献賞」が授与された。

世界の良識が認める池田名誉会長と創価学会を、宗門は切り捨てたのである。これは自らを世界の良識から切り捨てたことになる。象徴的な出来事だった。

池田名誉会長の活躍を讃える声は後を絶たない。その功績に対して、世界各国から四千を超える特別顕彰、七百にならんとする都市からの名誉市民証、二十二カ国からの国家勲章等を授与されており、さらにまもなく三百になる名誉学術称号を受けている。

その偉大さは贈られた学術称号の数だけではない。授与した大学がアジア・ヨーロッパ・アフリカ・南北アメリカ・オセアニアの五大州すべてにわたり、文化と宗教の壁を超えていることである。しかも、その大学の中に、モスクワ大学、北京大学、ボローニャ大学、グラスゴー大学、インドネシア大学など、各国を代表する名門が並んでいる。民間人が受けた名誉学術称号としては、世界一である。

宗門の檀徒たちは〃金で名誉称号を買っている〃などと根拠のない非難をしているが、これほど、授与した大学に失礼なことはない。

名誉学術称号の授与決定までには、何段階もの手続きが必要である。対象者の経歴や実績なども徹底して調べられる。例えば、インドネシア大学の場合、審議会のメンバーはイスラム教徒であり、全員一致でなければ授与されることはない。

また、池田名誉会長はハーバード大学をはじめとする各国最高峰の大学・学術機関で三十二回の講演を行なっている。それこそ、単なる肩書きだけで、できることではない。

さらに、世界的な識者や指導者との対談集は五十点を超え、その中にはトインビー博士との『二十一世紀への対話』のように、世界的名著として知られているものもある。

元インドネシア大統領のワヒド氏のように、トインビー対談を読んで感銘を受け、池田名誉会長との会見を望み、実現した識者も少なくない。

〃ワシは法主だ〃などと数百名の僧侶の中で威張っている日顕など、足下にも及ばない次元の話である。

10-7  日顕の怨念から生まれた今の宗門は「日顕宗」

今回の宗門事件を振り返ると、宗門が僧俗平等の大聖人の教えを受け継ぐのか、それとも檀家制度の弊害でもある僧俗差別の道を選ぶのか、その選択を迫られた試金石だったとも言える。

もし、宗門が衣の権威・出家の慢心を打ち破ることができていれば、宗門は、僧俗平等を貫く、真の日蓮門下の僧侶集団として、生まれ変わっていたかもしれない。

しかし、日顕と他の僧侶たちにはそれが出来なかった。

それはなぜか。一番の理由は、彼らが大聖人の〃民衆のために戦う〃という崇高な精神を忘れてしまっていたからである。

大聖人は次のように仰せである。

「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(御書1174頁)

日蓮大聖人は、不軽菩薩が増上慢の人々から杖で叩かれたり石を投げられたりしても礼拝行を貫き通したように、あらゆる苦難を受けながら、末法の衆生を救済するために戦った。

そして、大聖人は、教主釈尊の出世の本懐とは、自他の仏性を信じ、その仏性を開いていく「人の振る舞い」であると明確に示されている。

ところが、日顕は仏性を具す世界一千万人信徒を「僧よりも下」と蔑み、切り捨てたのである。大聖人の精神を捨て、日顕の「C作戦」に与同した宗門は、日顕の怨念から生まれた「日顕宗」であり、「C作戦」の首謀者の一人である早瀬日如は「日顕宗二世」でしかない。

10-8  実行部隊の中心者であったことを告白していた早瀬日如

早瀬日如は「日顕宗二世」にふさわしい者だ。なぜなら、「C作戦」実行部隊の中心者は早瀬日如だったからだ。

宗門事件が始まった当初、宗務院にいた南條信聡は次のように言っていた。

「学会から『お伺い』が来て、山の雰囲気は〃これはまずいな〃という感じだった。でも、御前さんの勢いがすごかったから、〃学会と戦うぞ〃という雰囲気に変わった」

このように、一度は本山の学会攻撃のトーンは落ちたが、日顕の〃池田名誉会長憎し〃の感情が宗内に勢いをつけたのだ。

そしてその中で〃実行部隊〃の中心者として日顕を助けたのが、当時庶務部長だった早瀬日如だった。早瀬は宗門事件の渦中、大願寺の所化を目の前にしてこう言った。

「今回の問題は全部俺がやってきたんだ。総監なんて俺がいないと仕事ができないんだ」

早瀬は弱腰だった総監の藤本を陰でけなし、自分こそが「C作戦」実行の〃立役者〃だと自負していたのだ。


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