なんだか毎年春が来ると、SNSでみかける恒例ネタな気がする「ママの手作り論争」。
幼稚園(や保育園もかな?)の入園に伴い、サブバッグや雑巾を用意する。
それについて「手作りで」というオーダーが入園先からあ(ったりなかったりす)る。
ということなようで。
いやキネ子供居らんから厳密には知らんけれども。
見てると、なんか手作り縛りなトコが多そうね?
で、それを手作りするのか、ハンドメイド作家さんなりに依頼するのか、既製品を買うのか。
結局のところ、選択肢のある限り家庭ごとに1番良い方法を選べば良いのでは?
え?ダメなん?
自分で作れる人は
「その程度も作らないって何なの?」的論調で
外注する人と既製品買う人及びそれもアリな人々は
「何があかんねん」って言う。
まぁこの人達が作る勢にdisられるとこから話が始まってたりするから、そりゃそーもなる。
ただそこで毎度、「不思議だなぁ」と思うことがある。
ここで作れる勢の言い分が
「そんな大したものじゃないんだから、そのくらいやれよ」
な場合に対しては、「狭量なことだなぁ」と思うに留まる。
「大したもの」かどうかは人による。
ピアノ経験者からしたら、簡易伴奏のきらきら星は「大したことない」としても、
小学校で鍵盤ハーモニカ触ったかなぁ位の人からしたら「大したこと」である。
ティッシュ1枚パッと取って大型のGでも掌で握り殺せる人からしたらGが出たことは「大したことない」としても、
玩具のGですら見て飛び上がる人からしたら、あんなもん見かけた時点で「大したこと」である。
つーか、大惨事。
更にこの「大したこと」加減がGのサイズにも因ったりするわな。
小型なら頑張ったらイケるけど、とか。
そんな定量化できない要素を相手に「そのくらい」とかいう時点でナンセンスだ。
だけ、「狭量なことだなぁ」て思う。
で、思ってお終い。
キネが不思議に思うのは、作れる勢の言い分が「手作り=ママの愛情」論であるケース。
キネは子供おりません。
が、モモンガはいる。
で、このモモンガの寝床を作ったりすると、盲目的かって位「ママ(飼い主)の愛情たっぷりね♡」的なこと言われるんすよ。
そもそこで、キネは不思議に思ってきたわけです。
ママの愛情ってなんだろう?
ニコぽんのは、初代を既製品買う予定が配送間に合わなかったんで作った。
ついでに慣らしの為にとキネの臭いが染み込んでるであろう草臥れたベッドパッド掻っ捌いて作ったモノが、質感的にニコの好みだったらしい(布)なので
その後それで数を作ったりもした。
シメシメと思って。
モモンガは、inポーチin服の中とかして臭いで慣らすの定番ワザなのん。ニコを日中カーチャンくしゃいお布団で好きに寝かしとくのもそゆ理由なのん。
つまりこの件における「ママの愛情」ポイントは「布選び」に掛かっている。
モモンガは毛足の長い生地を好きな子多いけど、毛足の長さ加減や質感はまたその子ごと好みが分かれるようで(笑。
メルは割とハリのあるロン毛が好きで、ニコはヘニョヘニョ短め、両者ともに次点はジェラピケ系によくありそうなふわふわロン毛(笑。
そこが合ったんなら、こちらの都合も良いしコレ使いなされっていう「布選び」。
その意味で納得する。
でも先代モモンガであるメルのときには、ただ単に編み物好きな飼い主が作ってみたくなったので作っただけのモノだったりする。
しかも何となく壺状に編んでみただけと言う可愛げとか特段の創意工夫とか何もないシロモノ。
なんで気に入ったら使いなされ、「こんなのオレの寝床じゃない!」と拒否るならそれもまた良し。
何せ作った時点で気が済んでいる。
ここには別に「ママの愛情」に掛かるポイント、ないんですよな。
「ママの気分」かな、あるのは(笑。
でも、等しく「ママの愛情たっぷりね♡」と言われる。
言った方は単なる褒め言葉というか、まぁ他に何か敢えてコメントするようなこともないだろうしな😅
別にそれでカチン💢とかイラッ💢とか来ることもないのだけれど、
不思議には思う。
以前ポテサラの話もあったな。
スーパーのお惣菜コーナーのポテサラ買おうとしたら「作らないなんて」って言われるやつ。
何があかんねん???
同じポテサラ好きな子供がいて。
ママの味付け加減のポテサラがお気に入りだから作った、なら分かる。
それは「手作り=愛情」の等式が成立しよう。
ただそういう訳でもなくって、ただ単にポテサラ好きな子で、そこに手間暇かけるより子供とのコミュニケーション取ったりする時間にウエイトを置く、故に買う、ならば、その時間計算こそが「ママの愛情」ちゃうん?
「ママとの時間」の方が大事だったり貴重だったりする子供だったら、その時間を犠牲にしてポテサラ作られても、そこに「手作り=ママの愛情」て等式は成立せんよな。
顔黒く塗ってグラサンして歌い出すんじゃない?そうじゃなぁい〜、ちて。
学校や幼稚園・保育園、学童とかもあるよな。
習い事とか含めても良いし。
子供の頃って、そーゆー「外の世界」に触れた中で起きたことや思ったことやなんか話したり出来る時間、大事なん違うんかね?
そういうのに対する大人のFBとか、そも話聞いて貰える前提とか、結構大事だったと思うのだけれども。
そゆの望むべくもない親元で育ったキネは、近所の相手してくれる大人ンとこ入り浸ってたよ。
100点取ったとか、誰それちゃんと喧嘩したとか、全部そこで話してた(笑。
学校で使うコモノ的なの手作りでも、ごはんがいちいちもれなく手作りでも、それ自体って別に愛情云々には関係なくない?
理由とか波及効果的なとこがポイントであって「手作り」はソコありきの「手段」でしかないっつーか。
仮にそれが「ママの愛情」と見せかけた実質的に「ママの自己満足」になってて、子供置いてけぼりになってたりした日にはそっちのが問題だと思うのね。
対外的に示しやすくはある。
お洋服から何から手作りされててとかまで至った日には、傍目に「手をかけてるなー」って思うには思うし。
でもそれは子供の好みを反映してたりして初めて「ママの愛情」なんじゃないのかなぁ。
子供自身はスポーティなスタイルが好きだけど、ママが自分の好みで「姫のドレスか!」位のフリフリ手作りして着せてる日常、とかなると、それはちょっと違うくない?
そこら辺のバランスは色々あると思うんだけど。
子供自身の言うことやなんかをただ只管に反映するとかムリだしそれもまた可笑しな話であるし。
ただ兎に角、通り一辺倒に「手作り=ママの愛情」ってのは、どうにも話がおかしくない?ってこと。
思うのだけれども。
手作り=ママの愛情
って言うのは、「物を大切にしなさい」とか「ごはんちゃんと食べなさい」とか、そういうこと教えてく上で
「ママが作ってくれたんだから」
って言う理由付けがあった方が子供の側が飲み込み易いっていう大人側の都合の話があって、そのパーツが一人歩きしてるだけなん違うん?
カーサンがーヨナべーをして手袋編んでくれたーぁ
のが愛情なのは、
「手作りであること」自体が愛情なわけではねーと思うのです。
そこ、時代背景として「子供用の既製品の手袋」なんて、当たり前に流通してたりそこらの家庭で気軽に買えるような時代だったんかね?と。
そうも行かないから、やりようとして子供に「木枯らし吹いちゃ冷たかろうて」手袋させたろと思ったら作るしかなかったんで
カーサン頑張りました
っていうところに愛情の話があるんでねの?っていう。
だってその母さん、アカギレに味噌すり込んでるからね?(効くのかしら)
味噌なのよ?ハンドクリームでもなきゃ、オロナインとかでもないのよ?
勿論ステロイドでもないのよ?
冬場は母さん日がな麻糸紡いでるし、父さん土間で藁叩いてるしよ。
春が来たなら畑に出るけど、農閑期は内職的な仕事して生計立ててるわけよ?
せめてラジオ聞かせたくって、茶の間でテレビとかじゃないし、むしろ土間と囲炉裏があるのよ?
現代人が物珍しがり有り難がる囲炉裏よ、囲炉裏。
あれが標準装備なのよ?
最近のチビっ子なん、鬼滅で見かけたとしてもあれに「囲炉裏」て名前がついてることすら、ヘタすりゃ知らないわよ?
察するに、子供の手袋なん、ちょっとそこらで買ってくるわって世界でもなし、況やAmazonでポチったりする世界でもないわけよ(笑。
だっけあのカーサンの「手作り」に「ママの愛情」がイコールで結ばるわけでしょや?
そーゆーのすらもすっ飛ばして、単純に作る作らないの話でdisったのdisられたのになるのも意味分からんし
そのトリガーになってる「手作り=ママの愛情」て関連要素ガン無視した等式の扱われ方も、どーにも意味分からんのだわ。
そしてもののついでに、自分がモモンガの寝床作ったのとかにも問答無用でその等式ぶっ込まれるんも、アレもちょいと意味分からんよなと思うんだわ(笑。
はーるーになーれーばー
しーがこーもーとーけーてー
作っれだーのー愛情だーのー
何を論ずと思うべなー?
ってなる春なのですた。
余談。
キネに「どじょっこふなっこ」を歌わすと
ナチュラルに「しがこ」の「し」が「しとすの間」位の発音になることに
今しがたふと気づいて愕然と致しました。
東北出身か。一応言うけど「しがこ」て氷のことやで?