ワイズマンの方法が、あがめられるようになると、
なぜヤバイと感じるかというと。。。

彼の作品は、観客に行間を読ませる能力を要求するからだ。
それは観客を選んでしまうことにつながる。
そのことがはたして良いかということだ。
敷居が高すぎて、入ってこれなければ、伝えたいものも
伝えられない。

たとえば、「パリオペラ座のすべて」を見に行った時に、
隣に若い女性が二人座っていた。

いまどきのギャルないでたち、、
「なかなか趣味がいいな~。
ギャルなのに、ワイズマンが好きなんて!」
(↑ってメチャメチャ偏見丸出し笑)

ワイズマンにありがちな、中盤がダラリとするところも
彼女たち、退席することなく、じっとしている。

さて、私は「パリオペラ座のすべて」は結構面白かった。

豪華な画面、振付がどんなふうにされるかも、見ていて面白い。
ワイズマンが自分自身のやり方をキチンと守っている感じ。
出すぎないことにより、対象がクリアになる。
良い仕事を今回もちゃんとやりましたというのが伝わるんだ。

そして、彼女たち、映画終了後、どういう表情だったかというと、
お互いに顔を見合わせて(;´Д`)←ホントこんな表情。。

「わかる!!」爆

つまり彼の作品を楽しむためには、そのための技をこちらが
用意しなくてはいけない。それがないと楽しめないわけだ。
そしてテレビの映像言語で育ったものたちには、なじめないものなんだ。
結果、必然的に客を選ぶ映画となる。
もちろん、どの映画でもいえることだとは思うが…。

それは、このように言いかえることができるかもしれない。

「観客を信用して観客にゆだねる」

ただ、その方法は、一歩間違えれば、「逃げ」にも通じるわけだ。
そして王道をやっていれば間違いがないという、「逃げ」
にも通じている。

そしてそれが、非常に洗練された表現方法、として認識され
続けていて、しかもその場所が、クリエイターがいる場所だとしたら
ワイズマンが増殖していやだなって思う。


ワイズマンの特性だと思うが、己の模倣を繰り返している。
それは、自分が決めた世界から飛び出さないでいることだと思っていて、
その停滞している様が、、どうなの?って思うのだ。
しかも、それでも王道たり得ている様子もどうなんだろうか。

悟られないようにする、サジ加減が才能というところなのか。

でもそれが透けて見えてきていませんか?

映画初心者の私が言うのもなんですが。。ハイ。