第5回「映画スターに見る戦後日本映画黄金時代」
                                              

 お久しぶりです。 今回は“映画スター”の話などをしてみようと思うのであります。

 “映画スター”この言葉も最早レトロなになっちまいましたなぁ。 今や映画スターなる存在は有りませんから若い人なんぞが聞くってえと、なんか古い映画雑誌のタイトルみたいに思うかもしれませんな。 しかしわれわれの時代のモンにとっちゃたまらない響きがあるんですな。アイドルなんて云っちゃいけません!そんなガキを相手にしちゃいけないのです。それでは本題に入ります。

 昭和20年代後半から“日本の娯楽”の中心は、ラジオから映画へと移り、昭和30年代に戦後日本映画の黄金時代が到来しました。 そして昭和40年代後半にその娯楽の王座をテレビに奪われるまでの約15年間が熱き戦後日本映画の黄金時代であり、映画スターの時代でもあったのであります。 何回も云いますが断じてアイドルではありません! この時代の映画スターと云うものは今のテレビアイドルとはまるで存在感が違うのでありまして、正に手の届かない雲上の人であり、その名前だけで客が呼べる存在だったのであります。  そして各映画会社にはその会社を代表する大スターがおりまして、そのスターの存在がそれぞれの映画会社のカラーを創り、その会社の栄枯盛衰にまで影響を及ぼしたのであります。 云ってみれば「スターの変遷」がそのまま日本の映画史となっているのでありますからその存在たるやもう凄いものであります。
 そこで、今回は映画会社別にそれぞれの会社を背負って立ったスターに焦点を絞って戦後日本映画の栄枯盛衰の変遷をまったくわたくしの私観で見てみようと云うものであります。 まあ映画ファンならどなたでも知っている話ばかりで退屈かもしれませんがよろしかったらお付き合いのほどを。

ところで戦後の日本の映画会社と云えば松竹、大映、東宝、新東宝、東映、日活の6社でありますが、なぜか松竹と新東宝には今回の話に登場するスターがおりませんな。  この辺が私観と云えば私観なのでありましょうか、ご不満の方もあろうかと思いますがその辺についてはおいおいお話したいと思うのであります。

   東映チャンバラ映画黄金時代へ
1.“錦ちゃん、千代ちゃんブーム”到来

  昭和20年代の終わり頃から映画が東映のお子様時代劇の爆発的人気によって子供のもの、にもなってきましたな。 それまで映画はどちらかと云えば大人のもので、子供の娯楽は漫画やラジオが中心で特にNHKのラジオ・ドラマ「新諸国物語」が子供達にとって漫画本と対になった最大の楽しみでありました。 そしてこのNHKのラジオ・ドラマ新諸国物語「笛吹童子」「紅孔雀 」等が映画化されるに至り、映画が子供のエンターテイメントの中に進入してきたのであります。 まあ、この辺りから戦後日本映画の黄金時代が始まったと見ていいのではないでしょうかね。 とにかく今のテレビ番組と同様にプログラム・ピクチャーと呼ばれる二本立ての新作映画が週単位で次々と封切られる量産の時代がやって来たのですからそりゃあ大変であります。

こうした状況を生み出したのが当時東映の専務であり辣腕プロデューサーでもあった“映画の父”マキノ省三の次男マキノ光男であります。 戦後はGHQのお達しにより時代劇を作る事が出来なかったのですが、その開放により光男は「待ってました!」とばかり、父省三がアラカン、バンツマ、大河内と云う時代劇の大スターを創り上げたように何が何でも新しい時代劇のスターを創り上げようとシャカリキになって育てたのが歌舞伎界の名門中村屋の御曹司であった中村錦之助や日本舞踊の東千代之介であり、更に歌舞伎界から大川橋蔵、伏見扇太郎 等を発掘してきたのであります。 こうしてお子様向け時代劇を量産する事により戦後の映画スター“錦ちゃん、千代ちゃん”の時代が到来しました。 なんと云っても東映にはその頃、時代劇の大御所 片岡千恵蔵、市川右太衛門の二枚看板がおり、それを取り巻くように凄い脇役がズラリ揃っているたのですから時代劇なら向うところ敵なしであります。 前回の“店主のくりごと”でお話した通り、経理に強い大川博社長と名プロデューサー マキノ光男が一体となって“時代劇は東映”のコピーの元に、新興映画会社東映は一気に業界一の映画会社となっていったのであります。

ここで人気ラジオ番組「新諸国物語」から生まれた映画とそこから派生した作品、そして二本立て番組併映用に作られた主な連続冒険時代劇作品をあげて見ましょう。(年号は第1作目の始まった年です。)

 昭和29年(‘54

  新諸国物語笛吹童子・三部作(中村錦之介、東千代之介が兄弟役で主人公)
      

 ●霧の小次郎・三部作(笛吹童子の脇役を主人公にした作品 大友柳太朗)

 三日月童子・三部作(霧の小次郎の副主人公を主人公にした作品 東千代之介)
                                      
 ●蛇姫様  ・三部作(東千代之介、高千穂ひづる)

 ●竜虎八天狗・四部作(東千代之介、千原しのぶ)

 ●里見八犬伝・五部作(中村錦之助、東千代之介)

 昭和30年(‘55)     

 ●新諸国物語・紅孔雀・五部作(錦之助、千代之介)

 ●百面童子・四部作(東千代之介、伏見扇太郎)

 ●天兵童子・三部作(伏見扇太郎、星美智子)

                                                                                         
 ●まぼろし小僧の冒険・三部作(伏見扇太郎、千原しのぶ)

 ●弓張月・三部作(東千代之介、長谷川裕見子)

 ●獅子丸一平・四部作(中村錦之助、千原しのぶ)

 昭和31年(‘56)

 ●異国物語・ヒマラヤの魔王・三部作(中村錦之助、東千代之介)

 ●風雲黒潮丸・三部作(伏見扇太郎、丘さとみ)

 ●新諸国物語・七つの誓い・三部作(中村錦之助、東千代之介)

 まあこんなところでしょうか。現在のコミックの週単位連続テレビドラマ化又はアニメ化のようなものですな。 ちなみに中村錦之助東千代之介のデビュー当時の出演本数を見てみましょう。 (カッコ内は主演作品で「笛吹童子」等のシリーズ物や準主演作品は入っておりません。)

 年号 昭和29年(‘54) 昭和30年(‘55) 昭和31年(‘56) 昭和32年(‘57) 昭和33年(‘58)
中村錦之助 18本(3本)  13本(8本) 15本(7本) 12本(6本) 12本(8本)
東千代之介 25本(13本) 21本(10本) 15本(6本) 16本(9本) 9本(5本)

 しかし、何とも凄まじい出演本数ですな。 こうしてそれまでは大人のものとされていた映画から、子供達によって熱狂的に指示される映画スターが続々と誕生していったのであります。 

   日活アクション映画の黄金時代
2.“太陽の男”タフガイ裕次郎登場!

 子供向け時代劇中心の東映映画の黄金時代も昭和30年代の後半に入るとその勢いに翳りが見えてきました。それはあまりにもワンパターンな内容とリアリティーのないお子様時代劇に観客はさすがに食傷気味となってきたのでありましょう。 国民白書に云う「もはや戦後ではない」と高度成長の波が立ち始めた昭和31年(‘56)、新時代の幕開けにふさわしいスーパースターが躍り出て来ました。 そうです。 石原裕次郎の登場なのであります。

 湘南の裕福なお坊ちゃんの無軌道な青春を描いた小説「太陽の季節」が芥川賞を受賞。その原作者の石原慎太郎の弟である裕次郎がこの小説の映画化(日活)に際し、湘南の風俗や言葉づかいそしてヨットの操縦の指導役として起用されたのですが、あまりにもリアリティーのある湘南ボーイ裕次郎を一目見たプロデューサーの水の江滝子がこの映画にチョイ役で彼を強引に出演させたのが戦後最大のスーパースター石原裕次郎誕生のきっかけであります。(この辺の事は“店主のくりごと”第2回をご覧下さい。)

時あたかも映画がワイドスクリーンの時代へと移行しつつあり、そこに登場した裕次郎はその長身をワイドスクリーンに叩きつけるように暴れまくり、それまでにないタイプのアクション俳優として一気にスターの座へと駆け上がるのであります。こうして生まれたまったく素人の、一映画スター石原裕次郎の登場によって勢いづいた日活はそれまでの文芸路線からアクション映画路線に製作方針を切り替え、裕次郎に続けと次には小林旭のスター化に拍車をかけます。「女を忘れろ」「爆薬に火をつけろ」等のあと昭和34年(‘59)ペギー葉山が歌って大ヒットした「南国土佐を後にして」を挿入歌として作られた同名の作品(共演 浅丘ルリ子)がヒットし小林旭はスターへの第一歩を踏み出します。 同年「南国土佐、、、」の内容を踏襲した作品(地方都市にふらりとやってきた流れ者がその町の悪者をやっつけ去ってゆく)「ギターを持った渡り鳥」が大ヒットし“渡り鳥” “流れ者” “銀座旋風児” “暴れん坊”等々いくつものシリーズを持つ大スターとなります。
 そしてその後 赤木圭一郎、和田浩治を加え日活ダイヤモンド・ラインを確立し、それまでの“時代劇王国”東映を凌駕する“アクション映画王国”新生日活が誕生するのですあります。 【写真左下:日活系映画館で売られていた「日活映画」昭和35年9月号の表紙を飾る“ダイヤモンドライン”】

 ところが昭和35年(‘60)石原裕次郎が(タフガイ)スキー場で右脚を複雑骨折して約9ヶ月も入院する事となったこの時期に、小林旭(マイトガイ)に続く日活第三の男としてめきめき売り出してきていた赤木圭一郎(トニー)が撮影所内で運転していたゴーカートを壁にぶつけ事故死するという惨事が起こってしまったのです。これにより日活はダイヤモンド・ライン体制を立て直す為に、バイプレイヤーとして活躍していた宍戸錠(エースのジョー)、二谷英明(ダンプガイ)を主役に起用した作品を打ち出すのですが裕次郎、旭、赤木のパワーには及ばず日活アクション路線に翳りが見えてきます。 翌 昭和36年(‘61)年骨折事故から9ヶ月振りに石原裕次郎は石坂洋次郎の文芸作品「あいつと私」でカムバックしますがそれまでのようなアクション映画王国日活のパワーは無くなり、ダイヤモンド・ラインの崩壊に揺らぐ日活をかろうじて支えたのは吉永小百合と浜田光夫のコンビによる青春路線でありました。


 東映チャンバラ映画黄金時代から日活アクション映画黄金時代と続いた日本映画は昭和36年(‘61)にそのピークに達します。日活アクション映画に翳りの見えてきたこの時期、大映の勝新太郎が同じ大映で同時にデビューした市川雷蔵に大きく水を開けられていたのを一気に追い越す勢いで飛び出してきます。

  大映二枚看板スター雷蔵・勝新大回転
3.“出遅れ勝新”遂に開花す!

 市川雷蔵と勝新太郎、この対照的なキャラクターそしてよきライバルである二人は第二の長谷川一夫となるべく大映の大きな期待を担って昭和29年(‘54年)に「花の白虎隊」で同時共演デビューしたのであります。【写真右:雷蔵(右端)勝新(中央)】
 歌舞伎の名門出の市川雷蔵はその品のいい顔立ちとすらりとした和服の似合うスタイルが白塗りの二枚目にぴったりと収まり、次々と長谷川一夫の大作に共演したり、主演級の作品をあてがわれ瞬く間にスター街道を走り始めたのであります。 昭和33年(‘58)には雷蔵の主演シリーズ作品が2本も作られるようになり、長谷川一夫の向こうを張る大映の看板スタートしてぐんぐん頭角をあらわしていくの対して一方の勝新はどちらかと云うと今ひとつ彼の個性に合った作品に恵まれずB級作品に甘んじてなくてはならず、同時にスタートラインに立った雷蔵にかなり水をあけられてしまうのであります。 まあこれは勝新が本来もっているエネルギッシュで天衣無縫な個性は第二の長谷川一夫を目指す白塗りの二枚目では生かせなかったと云うことでしょうな。

 そんな辛い時期を送ってきた勝新が本来の個性の萌芽を感じさせたのが森 一生監督の「次郎長富士」(昭和34年)で演じた森の石松ではなかったでしょうか。 単なる白塗りの若衆役でなく、ズタズタに斬られて死んでゆく森の石松と云う汚れ役だったんですな。(東映の中村錦之助がお子様時代劇の二枚目から演技派の俳優として認められたのも「任侠清水港」での、やはり森の石松役だったのではなかったでしょうか。)しかし勝新太郎が本領を発揮するのは翌 昭和35年(‘60年)の前述と同じ森 一生監督作品「不知火検校」においてであります。
 この作品は宇野信夫の戯曲「春の宵宮」を中村勘三郎が歌舞伎で演じていたもので、極悪非道の限りを尽くし検校の位まで上りつめる按摩の話で、実に暗く陰惨な物語であります。 この作品を勝新自らが取り上げ「こんな暗い話では客が入るわけがない」と難色を示す大映にどうしてもやらせてくれと懇願したものだそうです。 ライバル視されている市川雷蔵に大きく水を開けられていた勝新太郎にとっては乾坤一擲の勝負であったのでしょうな。 そしてこの作品に賭ける勝新の熱意により大映は殆んど期待しないモノクロのB級作品として製作したのでありますが、この「不知火検校」は大ヒットには至らなかったものの勝新太郎の新境地を開いた作品として高く評価されたのであります。 そしてこの按摩の役が勝新の生涯のライフワークともなった「座頭市」の原形なのであります。(私なんぞはこの映画が大好きでビデオを買ってもう10回以上観ております。) そして昭和36年「悪名」、37年「座頭市物語」と名作シリーズがスタートし、
“臥薪嘗胆” デビューしてから8年目にして遂に勝新太郎が開花したのであります。
 

 一方、大映からのお仕着せによる白塗りの美剣士ばかりやっていた市川雷蔵も昭和33年市川昆監督による初めての現代劇作品、モノクロ映画「炎上」で頭髪を剃って殆んどメイクをせず、金閣寺の僧侶の役に挑戦し新境地を開拓し始めたのでありますが、大映はあくまでも雷蔵を長谷川一夫を継ぐ二枚目スタートして育てようとし、雷蔵もなかなこれと言った決定打が出せません。 そして昭和37年「炎上」と同じ市川昆監督と組んだ文芸大作「破戒」でその年の日本映画ベストテン第4位(キネマ旬報誌)に選ばれ又、山本薩夫監督による従来の忍者映画とまったく異質でシリアスな作品「忍びの者」の大ヒットによりいよいよ雷蔵も本来のパワーを発揮し始めます。そして、翌38年雷蔵のシリーズで最も多く作られたシリーズの第1作「眠狂四郎殺法帖」がスタートしたのであります。 そして昭和40年以降、市川雷蔵は「若親分」「陸軍中野学校」等の名シリーズを生みます。
 
 こうして大映の雷蔵・勝新の両輪が大回転し始めた昭和36年(’61)、スター不足に悩む東宝に救世主が現れたのであります。そうです世紀の二枚目上原謙の息子で大学生、スポーツ万能、エレキ・ギターを弾いて♪幸せ                         だなぁ~と自作の歌を唄う若大将・加山雄三の登場です。


  
  東宝国際スター・三船と若大将