宮崎・アジアン雑貨・バリ雑貨・エスニックファッション・金土日・キンドビ・Kira Kira・キラキラ・絹川賢治 -2ページ目

宮崎・アジアン雑貨・バリ雑貨・エスニックファッション・金土日・キンドビ・Kira Kira・キラキラ・絹川賢治

バリ雑貨のお店 金土日(キンドビ)
 宮崎県東諸県綾町南俣1689-9
TEL 0985-77-3150

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体が融けそう。
アスファルトからの熱気で、ちょっとくらい浮かび上がりそう。
 
 
7月の暑い暑い暑いアツーイ日。
ボクは福岡県久留米市にいた。暑さでは定評がある。全国No.1の日も珍しくない。この日の気温は37度超え。
 
 
フー。
ゴジラならきっと火を吹いて、体内温度を調整するに違いない。
フー。
夕方5時だというのに…。ボクは火も吹けず熱い溜め息を吐いた。
 
 
 
ホテルに帰ってシャワーで体を冷やし、テレビをつけた。
 
 
濡れた頭を乾かしていると、やたらと元気のいい、生まれてきて良かった、みたいな…、刺激的で、爆裂的で、まぶしすぎる声が飛び込んできた。
 
よほど嬉しかったのだろう。満面を通り越して、満身笑みといっていいくらいの喜びよう。
 
彼女は間違いなく火を吹きながらインタビューに応え、勝ち誇るゴジラのように神々しかった。
 
 
ハンガリーのブダペストで開催されている水泳の世界選手権女子200メートル個人メドレーで、銀メダルを取った初挑戦の女性らしい。名前は大橋悠依さん、21歳、と画面に流れた。
  
思わず聞き入ってしまう。
 
そのインタビューのなかで、おカネには縁が薄そうね、といわれ続けてきたボクの小さな耳が、ある言葉に反応した。
 
 
「ハシッコ」。
 
 
「ハシッコだったから、緊張せず、ゆったりと泳げたのが良かったんだと思います」。
彼女はそう応えていた。
 
 
「ええっ、ハシッコ?!」
 
 
ボクの心の検索エンジンは「ハシッコ」という言葉を捉えていた。ハシッコ、つまり、1コースか8コースということだ。
 
 
準決勝では、8番目のタイムだったらしい。結果、決勝にかろうじて残り、8コースとなった。予選で速かった選手はど真ん中から振り分けられるというから、彼女のポジションは「はい、それまーでぇーよ」的な、そんなサヨナラな場所といってもおかしくない。
 
 
プールサイドからの水の跳ねっ返りがあって、物凄く不利なのだという。だから、8コースの選手が表彰台に上ることは至難のワザらしい。
 
 
でも、彼女はー。
壁から襲ってくる水の「反撃」をものともせず、それより、プレッシャーから解放され、のびのびと自分らしさを発揮できたのだという。
 
 
そう、つまり、 
ハシッコが人生を明るくしたのだ。
 
 
 
ボクは、子どもの頃からハシッコ、スミッコが好きだった。
 
町のよろず屋「絹川商店」のボンだったボクは、父に叱られると、2階の板の間のハシッコに50コほど積んであったダンボール箱の中や、庭の物置小屋のスミッコに作った「隠れ家」に身を潜めた。
 
 
部屋のスミの押し入れは一番のお気に入り。懐中電灯を点け、ゴロン。納屋に置いてあった木製のリンゴ箱を机にし、ライスチョコ、頭脳パン、ねじり菓子などを並べた。
 
母ちゃんの部屋から持ってきた卓上カガミが店からいただいてきた戦利品を映し出す。覗き込みながらパクパク、ムシャムシャ……。
 
 
そのうち座布団を丸めてウトウト……。ここからは自分がヒーローになれる夢と冒険仕立ての空想のお時間。ボクだけの世界をこじ開けてゆく。
 
 
大好きだった「忍者部隊月光」の秘密基地
をどこにどんな風につくるか、手裏剣づくりはどうするかなどなど、色々想いを巡らせ、『十五少年漂流記』や『宝島』を読んでは、トロピカルな南国の離れ小島への漂流を夢みた。
 
 
高校時代は学校まで、バスを乗り継いで1時間半。一番後ろの窓際に座わって、流れる景色を見るのが好きだった。景色のハテまで、行きたかったな…。
 
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▲東京から車で南下し続けて宮崎へ。

 

 

 
東京をサヨナラして南を目指し、辿り着いたのは、クルマで行ける陸のハテの宮崎だった。繁華街のハズレに4年暮らし、せっせとパチンコ屋に通い、とっとと元気になって、綾町を発見した。やがて、移住した。
 
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▲ココから綾。いつのまにか立派な看板でウエルカム!

 

 

 
綾町はハズレの町。この町を通過して、隣村に行こうという物好きはまず、いない。ここから先は「イバラの道」。というわけで、戦国時代の大昔でいえば、攻め込まれる心配がない、安全・安心、築城にはもってこいの場所。
 
ボク的には子ども時代の「押し入れ」の中のようで、じつにゆったり、ゴロンとなれる。

 

 

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▲下の写真は綾南川。綾北川と綾南川の間に街が広がる。

 
 
 
そもそも、人はハシッコが好きだ。
 
 
パチンコ屋に行くとすぐ分かる。1列に並んだ台のハシには、たいてい人が座っている。その隣には誰も座らない。だから、ハシッコの台が5回爆発しても(たくさんフィーバーして玉が出るということ)、隣は1回も出ないことはザラ。当たり前だ。ハシッコは人が座り続けている分、台の回復が早いのだ。
 
 
そしてパチンコ屋のトイレに行くと、5、6コは便器が並んでいるが、最初の御仁はたいていハシッコに向かう。両脇を気にしなくていいからね。マイペースが嬉しい。
 
 
他にも、大阪環状線、ジャズ喫茶、止めやすい駐車場などなど、ボクの勝手な目線でいけば、ハシッコが断然いいナ、と思えるところは結構ある。

 

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▲綾採れの販売拠点とその駐車場。やっぱり車はハシから…。

 

 

 
 
そして一。
ウチの店も、ハシッコで頑張ってます。
 
JR宮崎店は駅の北側のハシッコ。
 
イオンタウン姶良店は西館2階専門店街のハシッコ。
 
ドルフィンポート店は、桜島がキレイに見える、町のハシッコのシーサイド。

 

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▲ドルフィンポート店から見える桜島がキレイ。

 
 
ハシッコのお店には、人生を明るくするヒントが眠っているかもしれませんヨ。
 
 
 
◆エピローグ
 
「着込んできた?」。
「もちろん!」。
準備は万端。冷え性のボクは誇らしげに応えた。
 
いつも行く美容室はとにかく寒い。ボクの頭をブルーにしてくれる彼女は、妻の先輩だ。年齢や出身校じゃなく「ホットフラッシュ」の先輩なのだ。彼女は一。
「何言ってるのよ、冬は扇風機がないと寝れないわよ」。
ウゲェ、そうなんだ。
 
朝から妻は「来た、来た、来た、アツイ、アツイ、アツイ、アツイ…」と、あわてて保冷剤を抱き抱え、クーラー、ガンガンのカワいそうな事態だけど、ボクが寒い、なんて言おうもんなら「これ以上脱げないわよ。そんなに寒いんだったら、外、走って来たら…」と、機嫌を損ねてしまう。
 
この暑い夏も、ホテルでは毎日アンカに足を乗せ、タオルを首に巻き、もちろん長袖に靴下、タオルケットをぐるぐる巻いて…ミイラかいな…、の状態。
 
あぁぁー、冬に扇風機か、どうしよ?!
 

 

゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚

 



☆金土日(金・土・日のみ営業)

🏣880-1303

宮崎市綾町南俣1689-9

(酒泉の杜~第3駐車場ヨコ)

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☆イオンタウン姶良店

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「ふーん、行くんだ、やっぱり!」
ヒノエウマでB型の妻は、やんちゃな子供がこれ以上ハシャグのを諭すような口調でボクの顔を覗き込んだ。
 
 
「うーん、行こうかな、やっぱり!」
ヒツジ年でA型のボクは、知られたくない秘密がバレそうになった子供のように、ちょっぴりおどけながら、か細い声で応えた。
 
 
「はっきりいって、同窓会だよね、それって…」
「違う、違う。今回は同窓会じゃなくて、松ちゃんの1周忌だから」
 
 
松ちゃんとは、ま、ボクが夢見る演劇少年だった頃の師匠。表現、特に芝居に対する思いはこのとき鍛えられた。
 
 
滑って転んで、悩んで苦しんだ、沈思黙考、七転八倒の多感な時代のある時期、心のほとんど中心にいつも松ちゃんがいた。
23歳の頃。
 
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▲演劇少年「ボク」。
 
少なくとも1年間は松ちゃんととてつもなく濃い時間を過ごした。
 
マネージャー、運転手、宣伝担当、人集め、軍資金捻出、そして、役者。
 
アレコレ、ナンダカンダ、いつも走り回っていた気がする。
 
よく考えてみると、今もあんまり変わらないかも…。
 
 
 
そして、松本雄吉は天才だった。
役者としても…。
脚本家、演出家としても…。
 
 
 
1970年に劇団日本維新派(後の劇団維新派)を結成した。一人ひとりが「派」として「潮流」を産み出していく「劇団」であるようにと、維新派は生まれた。
 
関西アングラ界の旗手として、常にアッと驚く仕掛けと装置を駆使した特設野外劇場を作り上げ、作品を発表してきた。
 

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▲超スペクタクル野外劇『されどわがテンノウリ』は、4日で完結する4夜連続の長編作だった。

 

 

特に1991年の東京・汐留コンテナヤードでの野外公演『少年街』は、演劇界を大きく揺るがした。劇場というより、誰も見たことのない街を造り上げた。

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▲『少年街』。飛行機になって飛ぶシーン。

 (写真は『少年街』パンフレットから)

 

 

 

大阪弁のコトバを変拍子のリズムに乗せながら身体を駆使する独特の表現スタイルは「ヂャンヂャン☆オペラ」という新しいジャンルを開き、以降、国内外から高く評価されてきた。
 
台湾、オーストラリア、ヨーロッパ、南米ツァーなどを成功させ、維新
派の名前は世界に轟いている。
 
 
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▲「ヂャンヂャン☆オペラ」の初作品

『少年街』(写真は『維新派大全』から)

 

 

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▲宮崎にもやってきた『青空』

 (写真は『維新派大全』から)

 

 

 

と、まぁ、ざっくり紹介するとこうなるが、ボクがいた70年代は、「ヂャンヂャン☆オペラ」とは真逆の泥臭い、いってみればローソクの灯りが似合うアングラ全盛期。
 
 
巨大ビニールドームシアター、土と水による円環劇場、百坪の波打つ舞台、巨大滑り台舞台、雪と火山の劇場などなど、たった1回だけの公演のために生まれたこれらの野外劇場から、傑作もたくさん生まれている。
 
 
コトバとカラダをモノのカケラのように捉え、昇華させてゆく『風布団』はこの頃の最高傑作といっていい。

 

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▲70年代の傑作『風布団』。

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▲『風布団」の脚本。

 コトバ遊びの面白さは、この頃から始まった。

 

 
 
ただ松ちゃんとふたりぼっちの維新派になった辺りは、深い闇の時代。
 
 
ほとんど語られることのない、誰も知らない維新派暗黒時代。「どこゆく維新派・迷宮篇」といったところだろうか!?
 
 
やがて松ちゃんはここから復活していく。
 
 
松ちゃんに再びエネルギーが溢れ出した頃、ボクは大学を卒業、東京に就職した。
 
 
なかなかヘコタレない根性は松ちゃんに随分鍛えられたからなぁ。
ちょっぴり社会をナメてたと思う。
そのしっぺ返しは小さくはなかった。
 
 
NOといえない仕事への態度が、自分の情熱そのものに敵意を抱く引き金になり、やがて、人間嫌いに陥り、ココロはゆがんで、ひずんで、ポキッ…。
 
発作的に東京を飛び出した。
 
 
福岡で300円しかなくなったけど、いつしか宮崎にたどり着き、パチプロになっていた。
 
息を吹き替えすのにそこから2年。
妻に出会うのにさらに2年。
今も、本当にかすかな縁、出会いから生かされているんだと思う。
 
 
そんなボクを縁に維新派は宮崎に2回やって来た。その後、大阪南港や岡山の離島など何度か妻と芝居を観に行ったけど、ここ10年、松ちゃんには会っていなかったのだ。
 
 
食道癌になっていたことは知らなかった。
 
 
逢いたかったな…。
 
 
平成28年6月18日、松ちゃんは亡くなってしまった。まだ、69歳だった。

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▲松ちゃん、おつかれ。

 

 

 

 

アレから1年。
その「偲ぶ会」が開かれるとなれば、行かないわけにはイカナイ。
 
 
 
「じゃあ、やっぱり、昔の人がいっぱい集まるじゃん、同窓会みたいなもんだよね」
 
 
「そうかなぁ…きっと、知らない人ばっかりじゃないかな。でも、行かなきゃ」

 

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▲松ちゃんつながりで、会場は息苦しいほど…。

 

 
 
何とか妻の許可を得、会場がある東梅田のビルの地下、西天満のライブハウスへ。
 
 
6月24日。開演14時。
「もう一度逢いたい。維新派松本雄吉 1周忌の集い」。
 
公演さながらいつもの「屋台村」も出現し、縁日のような祭り気分も盛りがる。

 

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▲方々で派手などんちゃん騒ぎ。

 
 
若者たちの群れの中に、おじさん、おばさんたちは、ぽつりぽつり。
 
 
「誰や?絹川か?生きとったんか。わいも生きとるでぇ、まだまだ死なへん…若いときに病気したやろ、だから長生きしとるんや」と、ボクの頭を撫で繰り回しながら、訳のわからない理屈を押し通そうとする不死身の男、白藤茜。
 
 
生まれつき重度の障害者だけど、フィールドアスレチック等の組み立てを請け負う「白藤組」の親方として、劇団員は随分世話になった。野外特設劇場の舞台づくりの技術はここで覚えた。
 
35年ぶり。
66歳になっていた。
 
『劇団日本維新派』結成メンバー、唯一の生き残りでもある。
 
かつて「維新派の父」と呼ばれ、役者としての存在感はハンパなかった。圧倒的な迫力で空気と時間を支配する。
 
 
風呂屋の湯舟のシーンを思い出した。
 
スクラムを組んだ大勢の白塗の男たちの上気したカラダからは、白いドーランがライトを浴びて湯煙のように立ち上り、その真ん中辺りから白藤茜がセリ上がってくる。
 
「あんさん、わての下駄箱の番号札、知りまへんか?」
 
風呂に浸かった白藤茜の気持ち良さそうな顔。『風布団』の名場面だ。
今でもふと、思い出す。
 
白藤茜は、健在だった。
 
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▲ガンバレ!白藤茜。
 
 
 
辺りを見回した。
 
懐かしい顔ぶれがチラホラ。
でも、ほとんどは『少年街』以降の関係者たち。
 
 
70年代の「戦友」は、数えるほどしかいない。
 
 
「その節はお世話になりました」。
振り向くと、懐かしい顔がふたつ。
25年ほど前に宮崎にやって来た『少年街』のメンバーだ。一人は家業の肉屋を継ぎ、30キロ太ったそうだ。もう一人は相変わらずのボクよりイケメン。
 
 
ステージでは、松ちゃんのドキュメンタリーなどが上映され、みんな大声上げたり、拍手したり、思い思いにハジけながら懐かしんでいた。
 
 
誰もが受け入れる約束された光景が心地いい。ひとときの幸せな関係のなかで、みんな子供のようにハシャぐ。
 
 
 
舞台監督や美術監督、スタッフ等による座談会も催され、いよいよテンションが上がっていく。
 
 
維新派の役者たちによるパフォーマンスが続く。このコたちが台湾で公演したあと、結成47年の維新派は幕を閉じる。
 

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▲現在の維新派。最後の維新派。

 

 
 
次から次へとパフォーマンスは繰り広げられ、音楽もガンガン、酒もガンガン、血はドクンドクン。
 
 
松ちゃんを肴に、バカな話に夢中になり、笑い焦げながら、ときにはシンミリとしながらも、包まれる幸福感に心を委ね、時間は止まってしまう。

 

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▲ステージはノリノリ。いつまでも続く。
 
 
 
「少年は長い動詞が好きだ」。
 
 
70年代、松本ちゃんが、ボクらに残してくれた言葉だ。
 
今回、「偲ぶ会」に来る前に維新派の関係者から、年内に松ちゃんの本を出したいから資料を借りたい、と連絡を受け、探したところ見つかったインタビュー記事の中から、注目したいメッセージを要約してみた。
 
 
「ガキの頃は動詞がすごく多かった。蹴るとか、殴るとか…。同時に動詞が続く時間も長かった。蹴るんだったら蹴り続けていたし。つまり遊びほうけるということだ。
それだけ少年は動詞が好きなんだ。飛び降りるなら、飛び降りている時間が長ければ長いほどいい。俺はあいつらと一緒に、長い動詞を発明するということが芝居するということなんだ」。
 
当時、ボクらは松ちゃんからテーマを与えられ、自分ならではの「動詞」を磨くことに苦心を尽くした。しぐさやリズム、身体的不自由、保護色との関係性を追求していく体練の数々。
 
今でも芝居を観るとき、そこにどんな普通じゃない「動詞」がうごめいているかをみるクセがついてしまった。
 
 
「ヂャンヂャン☆オペラ」のコンセプトは
踊らない踊り、歌わない音楽、しゃべらない台詞、だそうだ。
 
 
ナルホド、この3つの表現が融け合うように混ざって「ヂャンヂャン☆オペラ」という新しいスタイルが生まれ、少年たちの長い動詞は発明されやすくなったのかもしれない。
 
ただ、どの時代の舞台にも間違いなく、少年たちの、維新派らしい不思議な熱気を帯びた長い動詞がはびこっていたはずだ。
 
 
逝ってしまった松ちゃん。
また、逢いたいな。
また、逢いたい。

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▲サヨナラ、松ちゃん。

 
 
 
このライブハウスにも、少年たちの「帰らない」「帰れない」「帰りたくない」という、長い動詞がいつまでも渦巻いていた。
 
もう、深夜。
明日は「倒れる」という動詞がないことを祈った。

 

 

 

P.S.

維新派にまつわる話を

もっと知りたい方は

過去のブログ

『みんな生きていた』

『与作と呼ばれた男』 

『幸村とボク』 

『干支の酉にまつわる話』

『維新派・松本雄吉のこと』

をご覧ください。

 

 

゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚

 



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▲繁華街といえど宮崎の空はいつも広い。

 

 

 

「まぁーたー、行くの?!」

「行かなきゃ…」
 
妻とボクのやり取り。 
 
 
20年前だったら、間違いなく行き先はパチンコ屋。敗けが続いたときの会話だね。毎日7万円持って通ったパチプロ時代が懐かしいよ。今はもう全然行かないけど。
 
じゃあ、どこに行くのか?
 
夜のおねぇちゃんのお店に通う、なんて元気はないし、趣味に走る暇もない。
 
じゃあ、何よ、ってことになるけどー。
 
この会話の後には必ず「なんで?」と、続く。
 
「なんで?」を解説すれば、つまり、このタイヘンなときに、行く必要があるんけ、そうまでして行きたいけ、行ってなんか得するの、という話だ。
 
それを説明するには、ちょっと回り道が必要で…、しかも、分かってもらえるかどうか…。
 
 
ボクは石川県に生まれ、大学は大阪、就職は東京、つまり、ボクという人間の根性と人情と愛情は、青空が少ない田舎と青空が狭い都会の影響を大いに受け、青空が広い宮崎でようやく人並みになった、というところだけど…。

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▲青島はバリのよう。

 

 

宮崎には恋人がいたわけでもなく、ひと山当てようと思って来たわけでもなく…。
 
都会での暮らしが、ショボン-ボンヤリ-ヤリキレズ、ある朝、電話線をチョッキンして、毛布三枚積んでやって来たところが、ココだった。
 
ま、分かりやすくいうと、誰もボクを知らない処へ行きたかっただけ。思えば遠くへ来たもんだ、がたまたま宮崎だったというわけだ。
 
 
 
「遠くへ行きたい」。
 
 
 
この曲には3通りの歌い方があります。分かる人?」。
 
 
音楽の授業時間。
当時、ボクは中学生だった。
ご存知、永六輔作詞、中村八大作曲の名曲だ。
 
音楽のセンセーが言うにはー。
 
「どこでもいい、ここ以外のどこかウーンと遠い処」あるいは「場所は特定できないけど自分が思い描く憧れの地」、そして、曖昧ではなく「わたしが大好きなあの場所」という3通りの「遠くへ行きたい」があって、その思い描く先によって、歌い方が違うというのだ。
 
具体的にはどう歌い方が変わるか分からないけど、大人になってからもこの「初耳学」はずっと頭に残っていた。
 
ま、この3通りがあるとして、ボクは、1番目と2番目の組み合わせでやってきた。
 
 
遠くへ、暖かい処へ。
 
 
 
もう、30年以上、この温暖な人情と愛情に包まれ、曲がりくねりそうだった根性も何とか修復、回復できてきたようだ。
 
「3種の情」は宮崎でようやく人並み程度には回復したんじゃないかな!?
 
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▲日南に向かう国道沿い。南国そのもの!
 
 
 
でもね、矛盾するようだけど、熱き血潮がたぎるボクの青春真っ只中を知る人はここには誰もいない。
 
 
時々だけど、ボクという人間のアイデンティティの源流を遡り、デタラメでナキムシでツヨガリで、しかし、全力疾走だった20代前半の常に何かに立ち向かっていたあのときの、心の沸点や融点みたいなものを確めたくなる。
 
 
「同窓会」。
 
 
そう、それが同窓会なのだ。
 
でも、妻は言う。
「同窓会といったって、ほとんど知らない人でしょ。たんに同じ大学出身で宮崎に住んでるだけの人の集まりでしょ」。
 
確かに…。
でも、違う。
 
学生時代はなんの繋がりもなかったけど、年に2回この同窓会に行くと、見知らぬ世界に憧れ、一生懸命前を向き、闘い、打ちのめされ、挫折の山を築きながらも、時折見つけた一瞬の輝きが、愛おしく思えた、あの気持ちを思い出させてくれる、ような…。
 
年を取ってくると、だんだん曖昧になってきたボクは何者なのか?という自らの問いかけにも、泥だらけになりながら起き上がり続けた原初の景色を思い出させてくれるエネルギーがもらえる、ような…。
 
 
「どうせ、行くんでしょ。昨日も山に向かって、大声上げてたじゃない!」
と、そっけなく言いながらも、やさしい妻は一万円カンパしてくれた。
 
 
しかも「そんな真っ白なふっさふっさの眉はみっともないから、みせてごらん」と、手際よくボクの眉をカットしてしまった。
 
何の抵抗もできなかった眉さんは少し存在が薄くなった。
 
 
ま、いいか!
ありがとう!
 
 
久しぶりなんで、声が出るか不安だった。
 
 
ベランダで声を張り上げるボクを遠目で睨むノラネコ。カラスもさっさと退散。ウチのノラちゃんだけが、目を輝かせて応援してくれている、そぶりもなく、アゴを突き出してでんぐり返り、のどかな体勢をくずさない。
 
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▲ベランダ、使わせてね、ノラちゃん。

 

 

 
大声には、理由があって、ボクは学生時代、1年間、応援団総部指導部という、らしからぬ男らしい処に在籍していた。
 
当時、高校までの自分とは真逆に生きてみたいと決意したての頃で、応援団はその1つだった。
 
 
「仰げば~星斗~欄干として~悠久の~真理を~囁き……」。
 
 
校歌の前口上。これをちゃんと間違えずに発声できますように…。
 
咳き込まないかが一番、心配だった。
 
校歌も忘れていないか、一応歌ってみる。
北原白秋作詩、山田耕筰作曲。校歌『空の翼』。
 
 
コツは校歌も前口上もエールも、テキヤのおいちゃん風に、五臓六腑に響くよう、ちょっぴり大袈裟に抑揚を付け、低い声で、パン食い競争のパンにかぶりつくような感じで声をハリ上げること。
 
あぁー、パン食い競争なんて、今はないかもね…。
 
 
ウチの山は発声練習にはもってこいの場所。お隣りの兄ちゃんも、一晩中ギター片手にミュージシャンしている。
 
でも、ボクは、飽きっぽいので5分も稽古すればオシマイ。ただ、肩腱板炎で左手が上手く上がらないのがね…。
 
 
こうしてボクは、同窓会に誘われるたびに出掛けていく。
 
 
さて、当日。
 
 
ナマ3杯、焼酎6杯……。
 
案の定、痛みをつい忘れてしまって…。
やりながらマズイと思いつつ、激しく左手を使ってしまった。
 
その日の深夜。
イタタイタイタ、イタタイタイタ…。
左肩は予想以上に、怒っていた。
 
 
ま、しょうがないね!
テンション、イケイケだったし。
期待されると応えないわけにはいかない。
 
 
あの頃の情熱、好奇心、無邪気…。
じわり、ふわり、思い出せたし……。
いいんじゃない!
 
ちなみに、同窓会の場所は宮崎市内の「ホテルメリージュ」。1階には、mari mariというお店があって、そこにはウチのアジアン雑貨がたっぷり並んでいる。
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▲海外雑賀のセレクト・ショップ。
 
 
とっても美味しかったです。
支配人さん、ありがとう!
 
 
◆エピローグ
 
最近、何だか少し太ってきた気がする。
おかしい!糖質制限しているのに。
妻に訴えると。
「あったり前じゃない。昨日どこ行った?」
「ホルモン」
「その前は?」
「寿司」
「夜は?」
「フランス料理」
「ほら~、糖質制限って、そんなにバクバク食っていいの?」
「でも、コメは減ってるよ」
「カロリー、と、り、す、ぎ!」
「自分だって、4キロ戻ったじゃん」
「わたしは、アレよ、血糖値高くないもん」
「でも、悪玉は最悪じゃん、けさ、甘いものは?」
「ぜんざい」
「昼は?」
「塩豆大福」
 
泥仕合は延々と続くのであった。