山崎神社(やまさきじんじゃ)
京田辺市三山木山崎107
現存する石灯籠の銘文から、「八王子宮」・「山神宮」と称した二社があったことが判明する。
山神宮は子授けの神として近隣の信仰を集めていたという。
明治二十年(一八八七)社殿を現在の場所に整備し、もとあった東側の小高い場所を掘り
下げたところ古墳(山崎二号墳)の石室や縄文時代の石棒(京田辺市指定文化財)がみつ
かった。
現在の祭神は二柱、一社は額田大中彦命(応神天皇の皇子)で、『古事記』・『日本書紀』
によると、その母は応神天皇皇后の姉であった高木之人日賣命(日本書紀では高城入姫)
と記されている。
この「高木」も地名として伝わっている。
他の一社は大友皇子で、皇子は古代最大の乱である壬申の乱(六七二年)で敗戦、「山前」
で自害したことが『日本書記』に記されている。
この山前の地がどこかについては諸説があるが、この地も山崎で丘陵が東に当時は伸びており、
八世紀にはその先に山本駅が置かれ、西に向かえば直ぐに北河内に、木津川を越え宇治田原
を経て大津の瀬田へも近く山陽道の要の地であった。
このため大友皇子についての地元口伝もあり、境内整備の際に祭神の変更があったと推定される。
石段上部玉垣の寄進者名に新国劇島田正吾が見られる。