背番号 | 女装男子かなこのブログ

女装男子かなこのブログ

あたし、かわいいものが大好きな女装男子です❗
女装に年齢は関係ありません❗

今季は、中日・岡林勇希選手が“ミスタードラゴンズ”の象徴とも言うべき背番号「1」(「60」から変更)、オリックス・山下舜平大投手が憧れのダルビッシュ有投手(サンディエゴ・パドレス)ゆかりの「11」(「12」から変更)を着け、心機一転、新背番号でプレーしています。


数字の中にさまざまな人間ドラマが込められた背番号にまつわるエピソードがいろいろあります。


◆ 支配下選手で初めて「0番」を着けた選手は?


チームの主力野手が着けるパターンが多い一桁背番号だが、1983年、日本プロ野球の支配下登録選手では初めて0番を着けたのが(1946、47年に巨人のブルペン捕手・長岡久夫が着けた例がある)、広島の外野手・長嶋清幸選手です。


プロ3年目の1982年までは「66」。


同年、40試合に先発出場するなど、一軍定着とレギュラー獲りに大きく前進し、古葉竹識監督から背番号変更を勧められました。


入団時から一桁番号に憧れていた長嶋選手だったが、1番から9番まで空きがなかったため、1982年のナショナルリーグ首位打者、アル・オリバー選手(モントリオール・エクスポズ)にあやかって、0番を着けました。


前年4位に沈んだチームも「START FROM ZERO」をスローガンに掲げたことから、「その分、励みになりました」という長嶋選手は1983年、130試合フル出場し、打率.295、13本塁打、57打点の好成績を残しました。


その後、長嶋選手が中日に移籍すると、1991年から高信二選手、1999年から木村拓也選手(故人)、2007年から井生崇光選手、2013年から上本崇司選手と、ユーティリティープレーヤーが着けるのがお約束になりました。


他球団では、通算533犠打の世界記録を持つ川相昌弘選手も、巨人時代の1989年から1999年まで0番を着けました。


◆ 1988年に「00番」が初登場


0番から5年後、1988年には00番がお目見えしました。


第1号は、シーズン途中退団のランディ・バースの穴埋めとして緊急補強で阪神入りしたルパート・ジョーンズ選手でした。


当初本人は「10」か「11」を望んだが、どちらもチームの永久欠番(藤村富美男と村山実)のため、イメージが近い「00」になったという話も伝わっていました。


だが、個性的なスキンヘッドと背番号「00」で話題になった新助っ人も、膝のけがもあり打率.254、8本塁打とバースの代役としては寂しい数字に終わり、実質3か月で解雇されました。


「00」も良いイメージを残さなかったが、1992年に亀山努選手が足の速さをアピールするために「67」から“軽い番号”の「00」に変えてブレイク。


その後も田中秀太選手、上本博紀選手ら俊足の選手が受け継ぎました。


他球団でも、巨人時代の屋鋪要選手、広島時代の笘篠賢治選手ら、やはり俊足のイメージが強いです。


投手では、日本ハムのカルロス・ミラバル投手が2000年から6年間00番を着け、阪神でも今季球団の投手では初めてハビー・ゲラ投手が着けています。


なお、日本ハムではミラバル投手が退団、背番号0をつけた古城茂幸選手が巨人に移籍した後の2006年以降、背番号にふさわしくないという理由から、0と00を使用していません。


頭に「0」が着く二桁番号を初めて着けたのは、1993年に野田浩司投手との交換トレードでオリックスから阪神に移籍した松永浩美選手です。


移籍時に希望したオリックス時代と同じ8番が空いていなかったため、仕方なく空き番の「2」を着けたが、ケガが相次いだことから、シーズン中にもかかわらず、「縁起の良い番号に」と変更を希望しました。


だが、空き番が「18」と「35」しかなかったため、「2」の前に「0」を着けた「02」になりました。


「02」は「オニ」とも読めるので、「自分を鬼のように強くする」という意味で「02」を背負ったといわれます。


背番号変更後はケガもなく、無事シーズンを乗り切ったものの、オフにダイエーにフリーエージェント移籍したことから、阪神ファンにとってはイメージの良くない番号になりました。


また、1993年に大洋から日本ハムに移籍した二村忠美選手は、ジェームズ・ボンドに憧れ、新背番号に「007」への変更を希望したが、「興味本位の番号は不可」と連盟に却下され、「00」になりました。


1998年シーズン中にダイエーから阪神に移籍した吉田豊彦投手も、支配下選手が70人ギリギリで、掛布雅之選手の「31」しか空いていなかったため、「01」を着けようとしたところ、これも連盟から認められず、打撃投手と間違えられてもおかしくない「91」になりました。


現在では、「01」「02」などの特殊な番号は、打撃投手や育成選手などに限られています。


その一方、打撃投手に多かった90番台の背番号は、支配下選手枠が60人から70人に増えたということもあって、支配下選手がつけることも増えています。


特に、育成から支配下に昇格した選手が90番台の背番号をつけるケースが多いです。


◆ 江川卓の“幻の背番号” 


“幻の背番号”があるのが、江川卓投手です。


作新学院高校時代の1973年のドラフトで阪急に1位指名されたが、進学を理由に入団拒否。


このとき、江川のために当時空き番になっていた「1」が用意されていたといわれます。


また、“空白の1日事件”を経て、1979年に小林繁投手とのトレードで阪神から巨人に移籍したときは、最初に入団した阪神では、一度も着ていないのに「3」が用意されていました。


阪神ではその前、1976年に南海から移籍した上田卓三投手が投手ながら背番号3をつけていました。


巨人入団後の江川投手は、前年までクライド・ライト投手が付けていた背番号30を付けました。


1983年の堀内恒夫投手の現役引退に際し、背番号「18」を譲る話があったが、江川投手は「30番のままでいいです」と固辞したというそうです。


堀内投手は、「あいつ、法大のときは18番だっただろう。不思議な拒否だよ。もっとも、江川の巨体には18番は似合わんよね。藤田(元司)さんでも僕でも桑田(真澄)でも、やや小さめで細い体の投手が似合うんだ」(「ベースボールマガジン」2006年夏季号「背番号の美学 受け継がれる魂」)と語っています。


江川投手の引退後、巨人の30番は橋本清、玉峰伸典、鄭珉哲、武田一浩、ゲーリー・ラス、林昌範、西村健太朗、小林雅英、宮国椋丞、鍵谷陽平といずれも投手に受け継がれ、今季はオリックスから移籍の近藤大亮投手が着けています。