終夜運転 | 女装男子かなこのブログ

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大みそかから元日にかけての風物詩と言える、電車の終夜運転。


初詣客などを運ぶため、1年に1回、大都市圏で深夜も電車が走り続けます。


この取り組みはいつ頃、どのようにして始まったのでしょうか。


大晦日に営業時間を延長する試みは、東京朝日新聞の記事を辿ると、都心電車の前身である東京馬車鉄道がすでに1901(明治34)年に行っていたことが分かります。


記事には「来る大晦日の夜乗客の便を謀り夜間一時半ごろまで運転を為すと云ふ」とあります。


馬車鉄道として最後の年となる翌1902(明治35)年には、「市内商家の便宜」を図るため「新橋上野浅草間を終夜となし支線すなわち品川新橋間を翌元旦の午前三時まで」運転すると報じられており、これが初の大晦日の終夜運転だったと思われます。


商家の便宜とあるのは、ツケ(掛、クレジット払い)で商品を買い盆暮れに代金を支払う「節季払い」が多かったため、大みそかは代金の回収に追われる人が多かったからです。


つまり、大みそかから寺社に赴き現地で新年を迎える「二年参り」を想定した終夜運転は後に生まれたものです。


それまでは初詣客を想定した「元日の臨時列車」だけが行われていました。


日露戦争最中の1904(明治37)年8月には、ロシア軍旅順要塞への攻撃開始にあたり、東京電車鉄道(東京馬車鉄道が電化で改称)が「もし旅順が陥落すれば音楽隊を乗せたイルミネーション電車5両に一般乗客も乗せて終夜運転する予定」と伝えています。


始まった途端に祝勝会とはあまりにも楽観的な見通しですが、旅順攻略戦は熾烈を極め、実際に陥落したのは奇しくも翌年1月1日のことでした。


「花電車」が実際に運行されたかは不明です。


この頃「大みそか以外の終夜運転」が始まっており、1905(明治38)年10月10日付東京朝日新聞は、12日に池上本門寺で行われる「お会式(日蓮の命日に行われる法要)」に参加する信徒のため、東京電車鉄道と京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)が終夜運転を行うと伝えています。


この法要の終夜運転、1924(大正13)年および1930(昭和5)年の新聞にも省電(国鉄)、市電、京浜が行うとの記事があるほか、戦争を挟んで1951(昭和26)年にも終電後に臨時列車を運行した記録があり、かなりの間、恒例行事だったことが分かります。


一方、関西では明治期から「恵方詣」が定着し、大阪から見て恵方にあたる私鉄が旅客誘致に励んでいたこともあり、東京以上に鉄道を使った参詣が身近でした。


そのため大正期には、西宮神社、今宮戎神社で1月10日に行われる「十日えびす」参詣者を見込んで阪神電気鉄道と南海鉄道が終夜運転を行ったことがあります。


このビジネスチャンスを逃す手はないと、私鉄各社は参詣客の取り込みに走ります。


関西では、最初は恵方に当たる年だけ大々的に宣伝していたのを、"方角の拡大解釈"が進み、ついには恵方でなくても「初詣」そのものをしようとPRするようになりました。


ただし、この頃の初詣は元日になってから行くもので、前夜から乗り込むスタイルは一般的ではありませんでした。


大祭や業務、祝事など必要に応じて行われてきた終夜運転はまだ、単に大みそかだからという理由では行われなかったのです。


昭和に入ると急速に大みそかの終夜運転が広まります。


大正中期から終夜運転を行っていた国鉄は、例えば1927(昭和2)年の大みそかは山手線、京浜東北線上野~鶴見間、赤羽線、中央線東京~中野間がそれぞれ12分間隔の終夜運転を行っていますが、これに加えて上野・両国を31日のうちに出発する「成田行き臨時列車」を設定し、乗客の囲い込みにかかります。


前年に京成電気軌道(現在の京成電鉄)が成田まで開通しており、それに対抗する措置でした。


京成も負けじと、翌年の大みそかに全線15分間隔の終夜運転を実施します。


結果的に国鉄も京成も利用者が増え、二年参りには大きな需要があることが見えてきたのです。


こうして私鉄各社は自ら需要を開拓するため、大みそかの終夜運転を始めていきました。


1930年代に入ると実施路線はますます拡大し、「平時」として最後の正月を迎える1936(昭和11)年の大晦日は、東京圏のほぼ全ての私鉄で実施され、多くの初詣客でにぎわいます。


しかし1941(昭和16)年に第二次世界大戦に日本も参戦すると国鉄、私鉄、市電の終夜運転は「都合により中止」することとなり、そのまま敗戦を迎えるのでした。


終戦を迎え、サンフランシスコ平和条約が調印された1951(昭和26)年末の大みそか、京成がいち早く終夜運転を復活させ、翌年には国鉄、東武、小田急、京急も再開しました。


1953(昭和28)年1月1日付の読売新聞は、明治神宮に「終夜運転の国電で駆けつける参拝者の群があとからあとから続いて元日午前一時までに昨年の六倍の五万人」が訪れたと伝えています。


このように鉄道会社と寺社が生み出した終夜運転と二年参りですが、現代になると、コロナ禍以前から利用者の減少が進み、終夜運転を縮小または中止する路線も少なくありませんでした。


終夜運転を行うためには人件費を中心に、それなりの手間と金がかかります。


コロナ禍を契機として、かつて自らが産んだ文化を畳もうということなのかもしれません。


今年は大手私鉄の中で東武・西武・小田急・東急・京浜急行・相模・東京メトロ・名鉄・南海・阪急・阪神が大みそかの終夜運転を行わず、東武・西武・小田急・相模・東京メトロ・名鉄・阪急・阪神は終電繰り下げや臨時列車の運転も行いません。


ところで終夜運転には、ニューヨーク地下鉄で行われるような日常的なものもあります。


実は1928(昭和3)年の終夜運転で国鉄は、どのような乗客が何の目的で利用しているのか、「将来運転上の参考」のために東京駅を始めとする各駅で乗客数を実地調査しています。


当時の山手線はそもそも今よりも運転時間が長く、終電が深夜1時半から2時頃、初電は4時から4時半ごろだったため、これをつなげて恒常的に終夜運転を行おうという構想がありました。


調査の結果、利用者が余りにも少なく、採算がとれないので終夜運転計画は中止すると伝えています。


その後もバブル期や、2010年代の猪瀬直樹東京都知事(当時)など、山手線や地下鉄の「24時間化」は度々提起されていますが、コロナ禍以降、目に見えて深夜の利用者が減少し、終電の繰り上げが進む今となっては、もはや誰も口にしなくなりました。


結局、終夜運転は大きな需要が存在するか、あるいは需要を自ら作り出さなければ成立しないサービスであり、一方で賞味期限はそれほど長くないものなのかもしれません。