自動改札 | 女装男子かなこのブログ

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欧米の鉄道では、乗客が購入した乗車券を改札するゲートが存在しません。


その代わり、不正乗車対策としてしばしば抜き打ち検札を行う「信用乗車方式」というシステムが多く見られます。


よくいえば、乗客の良識に任せた制度、悪くいえば大ざっぱな制度です。


その点、古くから日本の鉄道は改札が厳格です。


かつては改札口に担当の駅員が待機し、入場の際は改札ばさみで切符1枚1枚に切り込みを入れ、出場時にはそれを瞬時に確認しながら回収していました。


こうした背景から、自動改札のシステムは日本で独自の進化を遂げていったのです。


では、自動改札機が普及したのはいつのことでしょうか。


その答えは東西で大きく異なります。


関西圏では1970年代から珍しいものではなかったが、首都圏では1990年代まで、ごく一部の路線、駅でしか見られないものだったのです。


日本初の自動改札機は1927(昭和2)年にアジア初の地下鉄・東京地下鉄道(現・東京メトロ銀座線)の開業時に導入されました。


これは均一運賃制を前提としたもので、装置に10銭硬貨を入れると十字形のバーが回転して、乗客がひとり通過できる「ターンスタイル」という極めてアナログな仕組みでした。


しかし、ターンスタイルの自動改札機は、東京地下鉄道が経営上の理由から均一運賃制を廃止したことで、早期に廃止されました。


電子的な自動改札装置が開発されるのは、戦後、日本の高度経済成長期に鉄道の需要が増大してからです。


大都市圏では朝夕の通勤ラッシュ時に改札口前に人があふれかえる現象が目立つようになり、人流の円滑化のために自動改札化のニーズが生まれたのです。


まず、1966(昭和41)年に近畿日本鉄道(近鉄)が、南大阪線・大阪阿部野橋駅で、パンチカード式の定期券用自動改札機の実用実験を行いました。


これは、文字通り定期券に空いた穴で情報を得るシステムで、立石電機(現・オムロン)と近鉄が共同開発したものでした。


翌年には京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)が、千里線・北千里駅に立石電機開発の自動改札機を本格設置しました。


こちらは、定期券はパンチカード式、普通乗車券はバーコード式が用いられました。


一方、近鉄は1969年になると、日本信号が開発した磁気化乗車券を使用した自動改札機を奈良線・学園前駅にテスト導入。


以後、乗車券に磁気で記録した情報を装置が読み取る方式が自動改札機の主流となっていきます。


このほか、1970年代前半には鉄道業界全体で将来を見据えた取り組みとして、磁気コードの標準化などが行われています。


また、それと前後して、他の関西私鉄や地下鉄も続々と自動改札導入に動き出しました。


たそれぞれ最初に設置された駅は、

・京阪電気鉄道京阪本線 樟葉駅(1971年)

・大阪市営地下鉄(現・大阪市高速電気軌道)四つ橋線 玉出駅(1971年)

・阪神電気鉄道阪神本線、西大阪線(現・阪神なんば線) 尼崎駅(1972年)

・南海電気鉄道南海本線 和歌山市駅(1972年) となっています。


そこから、各社が足並みをそろえるように自動改札化を推進していくことで、関西では、1980年代後半までに完了に近いレベルに自動改札化が進んでいきました。


ただし、それは私鉄、地下鉄に限った話で、日本国有鉄道(国鉄)だけは流れの外にいました。


もちろん国鉄とて自動改札化に無関心だったわけではありません。


1970年代に、

・首都圏での散発的な試験運用

・新規路線の一部駅での自動改札機の常設

なども行っています。


関西でも1979(昭和54)年に片町線の一部や京都駅での試験導入の実績もあります。


しかし、国鉄全体として、本格的な自動改札化にまい進しなかったのです。


原因は国鉄の「構造」にありました。


1960年代から1970年にかけての国鉄は、職員が約45万人に及ぶ超巨大組織であり、人件費が膨れ上がることで恒常的な赤字体質に陥っていました。


一方で、組織が大きいゆえに複数存在した大規模な労働組合の力が強大で、上層部は合理化を容易に断行できずにいました。


改札口が無人となれば多くの職員が働く場を失うことにつながるため、各組合が猛反対の姿勢を打ち出すのは当然でした。


これが国鉄における自動改札化のブレーキになったと考えられます。


上記のように国鉄が自動改札化に消極的だったのは全国規模の話で、条件は首都圏も関西圏も同じでした。


その上で、首都圏では私鉄も消極的でした。


となれば、関西圏に後れをとるのは必然であります。


その背景を考察してみましょう。


首都圏私鉄のなかで、比較的前向きだった事業者に東京急行電鉄(東急)があります。


まずは1970(昭和45)年ごろ、改札口のすぐ手前にある自動券売機で切符を購入すると改札機が開放されるという独自の自動改札システムを渋谷駅、目黒駅などの主要駅に設置しています。


しかし、戦前のターンスタイル式をほうふつさせるこの方式は処理能力に難があり、短期間に姿を消しました。


また東急は1971年、東横線の祐天寺駅など3駅に磁気乗車券用の改札機を導入する実験を始めました。


以後、同路線で徐々に設置駅を増やし、さらに1980年代にかけて東横線、田園都市線などの駅にも設置していきました。


ほかにも、小田急電鉄(小田急)、帝都高速度交通営団(営団地下鉄/現・東京地下鉄)、京成電鉄など、1970年代前半に自動改札機の試験的導入を行った鉄道事業者はあったが、いずれも本格的な実用化には至りませんでした。


先導者的存在の東急とて完全自動化の道を選びませんでした。


こうした現象の主因として考えられるのは、関西の各私鉄は路線がほぼ独立していたのに対し、首都圏の鉄道路線は複雑な上に、1970年代にも相互直通運転の例がいくつもあり、そこには 「国鉄が絡んでいることも多い」 という環境です。


さまざまなイレギュラーなケースまでカバーするとなれば、国鉄の本格参戦が不可欠だったのは明らかで、そもそも1970年代のテクノロジーでは乗車券に記録される磁気の容量に限界があり、対応が困難だったのです。


なお、営団地下鉄・有楽町線が1974年に主要駅に自動改札機を投入したが、トラブルが続出して設置を取りやめたという事例もあります。


首都圏の自動改札化がようやく進んだのは、国鉄の分割民営化(1987年)後のことです。


1990(平成2)年に東日本旅客鉄道(JR東日本)が自動改札機の本格導入を打ち出したのです。


これに営団地下鉄も追随しました。


それは、技術の進化と分割民営化による環境の変化とがリンクした現象だといえます。


大きな山が動いたことで、各私鉄もあとを追い、1990年代前半のうちに首都圏でも自動改札は当たり前の光景となりました。


なお、混同されがちだが、首都圏の自動改札普及期とICカードが広まった時期はイコールではありません。


JR東日本によるSuicaの運用開始は2001(平成13)年なので、乗客が普通乗車券や定期券を改札機にイン、アウトさせていた時代が10年ほどありました。


その時代には、定期券を出し入れしやすい定期入れが広まり、自動改札機にインすれば運賃が自動的に精算される磁気式プリペイド乗車カード「イオカード」(JR東日本)、「パスネット」(関東の私鉄各社)、「Jスルーカード」(JR西日本)「スルッとKANSAI」(関西の私鉄各社)などが存在しました。