1975年・巨人唯一の最下位 | 女装男子かなこのブログ

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常勝軍団・巨人は、優勝回数48回(1リーグ9、セ・リーグ39)、日本一22回と両リーグ通じてトップの実績を残しています。(2位は西鉄時代を含む西武の優勝23回、日本一13回)。


そんな栄光の数々の一方で、球団史上初、現在でも唯一の最下位に沈んだ1975年は、2リーグ制以降5位以下が3度しかない球団史(1979年、2005年に5位)の中でも、唯一の暗黒期と言えるでしょう。


この年は、前年限りで現役を引退した長嶋茂雄選手(今年6月3日に死去)が新監督に就任。


高度なテクニックを駆使し、ファンを魅了する“クリーン・ベースボール”をスローガンに掲げました。


だが、長嶋選手とともに“V9戦士”の捕手・森昌彦選手、遊撃手・黒江透修選手も引退。


トレードは一切行わず、ドラフト1位も高校生の定岡正二投手(鹿児島実業高校)という端境期のチームで、2年ぶりのV奪回を目指すには、大きなプラスアルファが必要でした。


そこで、“ポスト長嶋”を担う助っ人外国人選手を獲得することになりました。


これまで“純血主義”を貫いてきた巨人が、現役大リーガーを入団させ、王貞治選手とクリーンアップを組ませる新構想は、伝統にとらわれず、新たな常勝チームをつくり上げようという前向きな姿勢の表れでもありました。


リストに挙がったのは、ロサンゼルス・ドジャースの三塁手、ケン・マクマレン選手とモントリオール・エクスポズ(現在のワシントン・ナショナルズ)の捕手、ボブ・スティムソン選手でした。


しかし、いずれも交渉は失敗に終わり、ONのNが抜けた打線に大きな不安を残しました。


さらに頼みの王選手まで左足ふくらはぎ肉離れで離脱と計算違いが続きました。


シーズン前の予想では、セ・リーグは前年の覇者・中日を中心に6チームとも実力が拮抗。


投手力の良い巨人は、王選手が3年連続三冠王を実現すればV奪回も可能というシミュレーションだったが、開幕戦の大洋戦では、王選手が前記の故障でスタメン落ち。


エース・堀内恒夫投手も6失点KOされるなど、投打とも歯車がかみ合わず、連敗スタートとなりました。


その後、引き分けを挟んで4月8日の広島戦でシーズン初勝利を挙げ、4位に浮上したのもつかの間、ここから3連敗し、再び最下位に転落します。


苦境にあえぐチームにひと筋の光明をもたらしたのが、4月18日、アトランタ・ブレーブスの二塁手で、1973年に43本塁打を記録したデーブ・ジョンソン選手入団決定のニュースでした。


「狭い日本の球場なら50本以上は打てる」と期待されたが、ジョンソン選手は本来中距離打者で、本塁打数も1973年以外はいずれも20本に届きませんでした。


はたして来日後、大砲の役割を求められたジョンソン選手は、日本の投手の変化球に手こずり、不慣れな三塁を守らされたことも打撃に影響を及ぼすという悪循環。


5月13日のヤクルト戦では、1点を追う8回1アウト一、三塁でスクイズを命じられたが、外角球にバットを引いてしまうチョンボを犯し、敗戦の元凶となってしまいました。


7月26日のヤクルト戦では、当時日本プロ野球で歴代野手最悪😖💦💨の8打席連続三振を記録。


直近20打席で無安打12三振の惨状に、「ジョン損」の造語まで生まれました。


打率.197、13本塁打に終わったジョンソン選手は「これ以上迷惑をかけたくない。来年は巨人でプレーする気はない」と一時は退団をほのめかすほど自信をなくしていました。


今年9月に亡くなったジョンソン選手が生前に忘れられなかったのは後楽園球場のロッカールームの横にあった風呂場で、長嶋監督に「「手首が痛くてバットが振れない」と言うと、僕の腰に巻いていたタオルをつかんで、「デービー、お前は女か!」と怒鳴った」と振り返っていました。


 一方、ONから“片翼飛行”となった王選手は開幕こそ出遅れたが、スタメン復帰後は徐々に調子を上げ、8月上旬までに23本塁打を記録していました。


だが、ライバル・田淵幸一選手(阪神)に10本差をつけられ、チームの成績同様、タイトル争いも大苦戦とあって、8月12、13日の直接対決では、田淵選手に本塁打を打たせないための変則シフトもお目見えしました。


走者がいるときは勝負を避けて歩かせ、無走者の一発狙いの場面で田淵選手が打席に立つと、レフトがラインギリギリ、センターがレフトの定位置、ライトが右中間を守るという“田淵シフト”で対抗しました。


ところが、そんなときに限って、打球は人のいないところへ飛ぶもので、まさかの2試合連続三塁打を献上してしまいました。


足が遅く、ランニングホームランは至難の業であることから、漫画の中で「あり得ないこと」を意味する“タブラン”なる新語も生まれた田淵選手に2試合続けて余計な進塁を許したのも、暗黒期を象徴するような珍事でした。


同年、田淵選手は43本塁打で初の本塁打王を獲得し、王選手の連続本塁打王は13年で終止符を打ちました。


そして、10月10日、巨人は打たれても打たれても長嶋監督が辛抱強く使いつづけた新浦寿夫投手の7回2失点の好投で阪神に勝利したものの、5位の大洋が中日に勝ったことから、球団創設以来初の最下位が決定。


同15日には本拠地・後楽園球場で、球団史上初の優勝🏆️を達成した広島の胴上げを目の前で見せつけられる屈辱も味わいました。


最終的に47勝76敗7引き分けで、広島に27ゲーム差の最下位に終わりました。


それにもかかわらず、観客動員は過去最高の283万人を記録するなど、ファンはけっして見捨てていませんでした。


そして、数々の試行錯誤の末、「何をすべきかが目の前に見えてきた」長嶋監督も翌1976年、“チャレンジ・ベースボール”をスローガンに、トレードで日本ハムから張本勲選手、太平洋から加藤初投手、伊原春樹選手、広島から小俣進投手を獲得、高田繁選手の三塁コンバート(ジョンソンは本職の二塁へ)、新浦投手の一本立ちなど、打つ手打つ手が奏功し、最下位から優勝というミラクルを達成しました。


結果的に新時代の扉を開ける転換期となった1975年。


球団史上たった1度の“汚点”も、けっして無意味なシーズンではなかったと言えそうです。


なお、プロ野球で球団初の最下位が最も遅かったのは阪神で、1978年が初の最下位です。


しかし、阪神は1987年に球団史上最低勝率で最下位に沈み、特にこの年は当時高校野球で最強を誇った「PL学園よりも弱い」と揶揄されるほどで、さらに1990年代は阪神の低迷が顕著になりました。