プロ野球選手のセカンドキャリア | 女装男子かなこのブログ

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プロ野球選手が現役でいられる時間は短いです。

ほとんどの選手がセカンドキャリアの時間のほうが長くなる運命を背負っています。

スポーツキャスターに転身したことでプロ野球に関わり続けた佐々木信也氏は有名だが、プロ野球から離れて、別のスポーツで成功を収めた選手の筆頭格は、巨人の馬場正平投手と西鉄(現在の西武)の尾崎正司投手になるでしょう。

馬場投手は1955年、三条実業高校(新潟県)を中退して巨人に入団しました。


巨人で5年間プレーしたが勝ち星なく、大洋(現在のDeNA)へ移籍したがケガで引退しました。


プロ通算成績は3試合に登板し、0勝1敗、防御率1.29。

その1敗を喫した試合は1957年10月23日中日戦で、先発で5回を自責点1と好投したが、巨人・水原茂監督は5回で馬場投手を降ろし、2番手の後藤修投手が7回途中まで5失点の乱調、打線も中日先発の杉下茂投手に0点に抑えられ敗れました。

この試合、巨人は優勝が決まった後で、レギュラー陣の多くを先発オーダーから外し、実績が全くない馬場投手を先発マウンドに上げたが、これは来季に向けて若手を試そうとしたのではなく、200勝がかかる杉下茂投手に花を持たせようとしたのです。


ところが、馬場投手が“まさかの”好投したために、水原監督は馬場投手を降ろして後藤投手を上げたと言われています。

その結果、杉下投手に200勝を献上してしまいました。


今では考えられない起用法です。


この試合が、馬場投手にとって最後の公式戦登板となってしまいました。


その後、プロレスの世界に身を投じて、「ジャイアント馬場」として十六文キックや三十二文ドロップキック、脳天唐竹割り、コブラツイスト、ランニングネックブリーカードロップ、ヤシの実割り、河津落としなどの技で、ルー・テーズ、フレッド・ブラッシー、ジン・キニスキー、ブルーノ・サンマルチノ、クラッシャー・リソワスキー、ディック・ザ・ブルーザー、ザ・デストロイヤー、ボボ・ブラジル、フリッツ・フォン・エリック、ビル・ロビンソン、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク、ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク、ミル・マスカラス、スタン・ハンセン、ハーリー・レイス、ブルーザー・ブロディ、タイガー・ジェット・シン、ニック・ボックウィンクル、リック・フレアーら世界の強豪レスラーと戦い、インターナショナル王者やPWF王者、そして当時世界最高峰といわれたNWA王者になるなど、伝説的な存在になりました。

海南高校(徳島県)で1964年のセンバツ優勝投手でもある尾崎投手は西鉄で3年間プレーしたが、やはり勝ち星なしに終わりました。


通算成績は20試合登板、0勝1敗、防御率4.83でした。


同期の池永正明投手が投げる球を見て「野球では勝てない。違う世界で勝負しよう」とプロゴルファーに転じて、ジャンボ尾崎として息の長い活躍を続けています。


ただ、野球でもスポーツでもない道で第2の人生に挑む選手のほうが圧倒的に多いです。

最近は芸達者な元プロ野球選手も少なくなく、板東英二さん(元中日)、嶋尾康史さん(元阪神)などタレントや俳優として現役時代より活躍しているケースも散見されるが、同じ芸能の道でも、俳優として成功したのは希少。

そんな元プロ野球選手で、ほぼ唯一の存在と言えるのが、東映フライヤーズ(現在の日本ハムファイターズ)の八名信夫さんでしょう。


選手としても俳優としても名前は同じです。


20世紀の終盤からブラウン管を彩った青汁のCMもインパクト抜群で、ぼちぼち中年の声が聞こえはじめる若い人には「あー、まずいー、もう一杯!」の青汁のCMのイメージが強いかもしれないが、「何度も殺されたよ。でも殺した数のほうが多い。殺される前に5、6人は殺してるからね」と語る悪役俳優のレジェンド。


昭和の昔はアクションドラマで活躍し、特に破格の規模を誇った「西部警察」(テレビ朝日)では10話に1度くらい登場して(すべて違う役)、すでにロマンスグレーになっていたが、マシンガンや火炎放射器を片手に、やや猫背ながら抜群の運動神経を発揮していた印象があります。(あくまでも印象)


八名さんは東映で3年間プレーしたが、「昔は、どの球団も、やめた後は親会社に就職させることがあった。俺らは東映だから映画会社だけど、もちろん俳優なんて考えてないよ。社長命令だから東映の本社へ行けと言われて、会社の仕事を何かするかと思ったら、撮影所の俳優だって。それが始まりさ」(八名)のだというのです。


ただ、映画との縁も少年時代から始まっていたといい、それは野球も同様でした。


岡山県の出身で、「進駐軍のジープが来て、軍人が運動場でキャッチボールをしていたのが、初めて見た野球。あんなに面白いものがあるのか、と思ってね」(八名)。


中学では捕手として岡山市の頂点に立ち、岡山東高校へ進学。


先輩には大洋でもバッテリーを組んで初の日本一へと引っ張っていく秋山登投手と土井淳選手がいました。


秋山投手らが明治大学へ進むと、後を追うように明治大学へ進学。


すぐに投手として活躍を始めたが、秋山投手らの活躍に嫉妬した仲間たちに言いがかりをつけられ、殴られる毎日。


「同期の近藤カズ(和彦)が用意してくれた店にかくまってもらったんだ。それで、これはもうプロに行くしかないと」(八名)


中退して、1956年に東映へ入団しました。


ほかにも広島など3球団から誘いがありました。


入った寮は「もともと病院だったんだ。俺は1人部屋で、夏に蚊が来ないくらいアルコール臭い部屋だった。あとで聞いたら死体安置所だったらしいよ(笑)」というそうです。


スリークオーター気味のフォームからのシュートが武器だったが、「たいしたことない選手だった」とも振り返ります。


当時のパ・リーグは南海(現在のソフトバンク)と西鉄(現在の西武)が覇権を争っていた時代。


「この2チームとやるときは俺たち二線級が投げるんだ。どうせ勝てないからってね」(八名)と、1年目は9試合に登板して0勝1敗に終わりました。


その後も勝ち星のないまま、迎えた3年目。


「けっこう調子がよかったんだ。それが8月の近鉄戦で大ケガ。プレートを蹴ったスパイクが抜けなくなり、後ろに倒れ込んだ。腰がグッと曲がったままね。それで動けなくなってしまった。もう終わったって、その瞬間に思ったよ。(回復まで)何カ月もかかったな。それでクビだね。『いらねえ、おめえは』という感じさ」(八名)。


この挫折が転機となるわけだが、2015年のインタビューで、こうも語っていました。


「役者のほうが長くなったけど、元プロ野球選手という誇りはある。いまもフライヤーズのマークをつけていたという誇りは持ってるよ」。


野球についても、八名さんは雄弁でした。


八名さんがプロ野球を引退して俳優に転向したのは東映の大川博社長(東映球団オーナー、故人)から「長嶋茂雄や王貞治に打たれるよりも、高倉健に撃たれるようになれ」と言われたからだといわれますが、王選手のプロ入りは八名さんの引退と入れ替わりだったので、実際にそのように言われたかどうかは疑わしいです。

嶋尾康史さんも、名前だけではピンとこないかもしれないが、顔を見れば「どこかで見たことがある」と感じる人は少なくないはずです。

彼は1987~96年まで阪神タイガースの投手として活躍し、その後は人気ドラマ「やまとなでしこ」(2000年、フジテレビ)、2021年の日本アカデミー賞で12部門を受賞した映画「Fukushima50」など数々の作品に脇役で出演しています。

今では名脇役のイメージが強いが、野球でも記憶に残る選手でした。

東洋大姫路高校3年生時に出場した1986年夏の甲子園では、後に大リーグでも活躍した長谷川滋利投手と並ぶ二枚看板投手として活躍し、ベスト8入り。

その年のドラフト会議で阪神から2位指名されました。

阪神ファンの語り草になっている1992年シーズンは25試合に登板し、1勝2敗1セーブ、奪三振38、防御率2.39という好成績で、惜しくも優勝を逃したが、阪神の快進撃に貢献しました。

だが、その後は右肘の故障から復調できず、1996年限りで引退しました。

嶋尾さんが俳優に転身した裏には、思いもよらない“奇縁”がありました。

「本来だったら、もっと早く戦力外になっても仕方がなかった。ケガも実力のうちですし、努力も足りていなかった。回復を待ってくれた球団には感謝しかありませんでした。でも諦めきれない思いがあり、近鉄とヤクルト、台湾の球団のテストを受けましたが、それも全部落ちて、引退を決意しました」

漠然と引退後は「ケガで苦しんだので、鍼灸師か整体師の道に進もうか」と考えていたが、またしても奇縁が人生を意外な方向に進ませることになりました。
運命を変えたのは、2人の映画監督の思いがけない言葉でした。

1人は“喜劇映画の名手”として知られた瀬川昌治氏(故人)。

熱烈な阪神ファンの瀬川氏と親交があり、引退の報告をしたところ「嶋尾くん、次の仕事は決まってるのか? まだだったら、顔の広いおばちゃんがいるから一度会ってみろ」と言われました。

その女性が現在の所属事務所の社長で、すぐにスポーツキャスターとしてテレビとラジオ番組のレギュラーが決まりました。

仕事は順調だったが、嶋尾さんは「大した成績を残せていないのに、エラそうに野球のことを語るのはおかしいんじゃないか」と密かに悩み始めていました。

そんな時、再び人生を大きく変える出会いが訪れました。

それがもう1人の監督、数々のNHKドラマの演出を手掛けた深町幸男氏(故人)でした。

スポーツ番組の打ち合わせで事務所に寄った際に、俳優のワークショップの準備で訪れていた深町氏に「ちょっとこのセリフ言ってみてよ」と声をかけられ、言われるがまま芝居をしてみたところ、「きみは役者をするべきだ!」と絶賛されました。

新たな道を模索していた嶋尾さんにとって、その言葉が以降の人生の決定打になりました。

深町氏が演出したドラマ「魚心あれば嫁心」(1998年、テレビ東京)でデビュー。

以降はスポーツキャスターの仕事は辞退し、俳優業だけにまい進しました。

慣れない現場で大物女優の足を何度も踏んでしまったり、十数秒のシーンで15回もNGを出したことも、仕事が3か月間ない時もありました。

それでも野球とは違う道を見つけたい一心で、不器用ながら懸命に芝居に打ち込んでいると徐々にオファーが増えていきました。

しかし、嶋尾さんが頑なに断り続けた役柄が1つだけありました。

それは野球選手の役でした。

「どこかで中途半端に終わった野球から逃げたい気持ちがあったのだと思います。スーツ姿の野球選手役などはやらせてもらいましたが、ユニフォームを着る役だけはお断りし続けていました」
こだわりを捨てるきっかけになったのは、古巣・阪神タイガースを舞台にした2002年公開の映画「ミスター・ルーキー」で演じた4番打者・多田役。

メガホンを取ったのは「破線のマリス」で映画デビューさせてくれた井坂聡監督でした。

野球選手役だけは拒んできた嶋尾さんだったが、東京大学野球部出身で野球をこよなく愛している井坂監督から「主人公の職業をきちんと描きたい」という強い思いを聞き、ついにユニフォームを着て野球選手の役を演じることを決めました。
脇役ながら恵まれた体格が放つ存在感を持ち味に、これまで50作品以上のドラマや映画に出演。

舞台経験も豊富で、自ら演出を担当することもあります。

俳優であれば“ちょい役”でも出たいと思うNHKの連続テレビ小説や大河ドラマにも出演を果たし、彼を評価して起用し続けてくれる監督も少なくありません。

だが、「よく存在感があるって言われますけど、ただ体がデカいだけですし、作品によっては変に目立ってしまうこともありますから。満足のいく芝居ができたことは1度もないし、いつまで経っても下手な役者なんです」と納得していない様子。

おまけに俳優の醍醐味を聞いても「楽しさよりも、つらいことの方ほうはるかに多いですからね…」と語ります。

では、なぜ俳優を続けるのか。

「野球は答えが出る。だけど、芝居には答えがないんですよね。今でも、どんな芝居が正解なのか分からないし、きっと死ぬまで悩み続けると思います。でも、役者は自ら選んだ道ですから。これだけは絶対に中途半端で終わらせたくないんです」

奇縁が重なって身を投じた俳優業も、気づけば芸歴27年目。

プロ野球10年、少年野球から数えれば19年間の野球人生を超えました。

芝居に正解はないかもしれません。

しかし、ドラマ「やまとなでしこ」、映画「Fukushima50」などで彼を起用した若松節朗監督は、嶋尾さんに密着した2020年放送のドキュメンタリー番組「OF LIFE」でこう語っていました。

「嶋尾は日本一不器用な俳優。これは誉め言葉。不器用って自分で分かっているから、一生懸命努力する。1つのセリフに対して100回練習してきただろうなということが分かる。これが彼の不器用の強さ。それが画面で惹きつける」(同番組より)

これが嶋尾さんが選んだ俳優という道へのひとつの答えです。