中日ドラゴンズのエースとして1954年の球団初となる日本一に貢献、監督も務めた杉下茂さんが6月12日、肺炎のため亡くなりました。
16日、中日球団が発表しました。
97歳でした。
杉下さんは1925年9月17日生まれ、東京都出身。
帝京商業学校(現帝京大学高校)、いすゞ自動車、明治大学を経て1949年に中日に入団しました。
杉下さんは日本で初めてフォークボールを投げたことで知られ、「フォークボールの神様」と呼ばれました。
明大時代に、同大学の先輩であり、中日入団年に監督になった天知俊一さん(故人)にフォークを教えられました。
そのフォークを武器に3年目の1951年に28勝13敗で沢村賞と最多勝のタイトルを獲得。
1954年には32勝12敗で投手タイトルを総なめにし、MVP、沢村賞も獲得してチームの初優勝🏆️、日本一に貢献しました。
1955年5月10日には国鉄(現東京ヤクルトスワローズ)戦でノーヒットノーランを達成しました
1959年から2年間選手兼任で監督に就任したが、登板はありませんでした。
1961年に大毎オリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)へ移籍してその年で引退しました。
引退後の1966年に阪神、1968年に再び中日の監督に就任しました。
そのほか、大毎、阪神、巨人、西武で投手コーチを務めました。
1985年には野球殿堂入りしました。
また、1996年から中日春季沖縄キャンプで臨時コーチを務め、90歳を超えても精力的に動いて、ひ孫ほど年の離れた選手を指導しました。
通算成績は525試合登板、215勝123敗、防御率2.23でした。
中日での211勝は球団2位の記録、山本昌投手に抜かれるまで最多でした。
獲得タイトルはMVP(1954年)、最優秀勝率(1954年)、沢村賞(1951、52、54年)、最優秀防御率(1954年)、最多勝(1951、54年)、最多奪三振(1950、54年)、ベストナイン(1954年)。
200勝をクリアしているが、大正14年(1925)生まれのため名球会入りの対象外です。
日本のプロ野球界に「フォークボール」の礎を築いた大投手が息を引き取りました。
当時としては大柄だった182センチの身体を躍動させ、落差の激しい変化球を投げ込みました。
「打撃の神様」巨人・川上哲治選手(故人)や、初代「ミスター・タイガース」阪神・藤村富美男選手(故人)ら名選手と対峙しました。
フォークボールを代名詞にして一時代を築き上げました。
日本人メジャーリーガー“第1号”になっていたかもしれないほどの逸材でした。
1951年の2月、3Aサンフランシスコ・シールズのキャンプに参加しました。
当時は「どこに行くか分からない」と自ら封印していたフォークをメジャー候補生相手に投げ込みました。
屈強な打者たちのバットはおもしろいように空を切り、シールズの監督から「メジャーへ来ないか」と誘いを受けました。
しかし家庭の事情などもありメジャー行きは辞退。
アメリカで自信をつけた杉下さんは帰国後、28勝(13敗)を挙げて最多勝を獲得。
1954年には再び32勝を挙げて2リーグ制後初めてとなる投手5冠を達成し、中日を初のリーグ優勝、日本一へと導きました。
杉下さんは現役時代「私のフォークは川上さん専用」と言い、こだわりを持ち続けました。
打倒巨人のためには4番打者川上哲治選手を抑えなくてはならないからです。
川上には1950~53年、2リーグ制になって4年連続で直接対決で打率3割を許しました。
1954年、天知監督は杉下さんを巨人戦に集中的に投入しました。
それに応えて巨人戦は35イニング連続無失点を含め11勝5敗をマーク。
川上選手にはソロ本塁打1本だけの53打数8安打の打率.189に抑えました。
まさに、巨人を封じ込んでの優勝でした。
魔球は、他球団の捕手のバッテリーを組むオールスター戦では1度も投げなかったほど大事にしていたが、ほとんどフォークばかりで完封勝ちした試合がありました。
1954年、西鉄ライオンズ(現在の埼玉西武ライオンズ)との日本シリーズでした。
3勝3敗で迎えた最終戦。
それまで2勝1敗、29回2/3を投げて疲れ切っていた杉下さんに、捕手の河合保彦さんが、1回を終えたときに言いました。
「カーブが合わされている。今日はとことんフォークで行きましょう」。
どんなボールでもつかむ女房役の言葉に杉下さんは、通常のフォークに加え、少し遅めのフォークを交えて見事3安打で1―0完封、日本一をもぎ取りました。
通算400勝の国鉄・金田正一投手(故人)との投手戦は1950年代のセ・リーグを彩りました。
お互いに投げ合いの中で、杉下さんはノーヒッターを、金田投手は完全試合を達成しました。
その金田投手が「杉下さんはフォークばかり言われるが、まっすぐも速かったよ。それがあってのフォークなんだ」。
戦地で手榴弾を投げて強くなった肩から繰り出す速球も、名投手の大きな武器でした。
巨人・長嶋茂雄終身名誉監督は「現役時代、杉下さんとの対戦ではこれは打てないなと諦めさせるようなフォークボールが印象的でした。ストレートも速く、そしていつフォークボールが来るんだと打席で恐怖を覚えたことを思い出します。杉下さんのフォークボールは、日本球界で多くの投手の礎となったことは間違いありません。1976年には巨人投手コーチとして力添えを頂き、若い選手中心の投手陣を鍛え上げて、立て直してくれました。監督とコーチの立場ではありましたが、信頼し合って一緒に優勝の喜びを分かち合うことができたのも心に刻まれています。偉大な先輩の訃(ふ)報を聞き、大変残念でなりません。心よりご冥(めい)福をお祈りいたします」と偲んでいました。
野球評論家の権藤博氏は中日のエースナンバー20番を引き継ぎ、その後も監督と選手として指導を受けました。
「私が60年に中日と入団契約を交わした時の監督が杉下さんでした。ドラゴンズと言えば杉下さん。歴史をつくった人です。入団が決まった直後に監督を退任され、デビューした61年から偉大な背番号「20」を引き継ぐことになったのですが、永久欠番になるべきものを背負うことで、強い使命感が生まれたことを今も鮮明に覚えています。」と振り返っていました。