近鉄監督 | 女装男子かなこのブログ

女装男子かなこのブログ

あたし、かわいいものが大好きな女装男子です❗
女装に年齢は関係ありません❗

昨年、大阪近鉄バファローズに在籍したことのある最後の選手だった坂口智隆選手(ヤクルト)が現役を引退しました。


これで、近鉄時代を知る現役選手はゼロとなりました。


今年9月には、近鉄バファローズの1979年に初優勝、1980年の連覇の時のメンバーだった平野光泰さんが亡くなりました。


また一つ、近鉄バファローズの面影が消えました。


2004年に球団が消滅した近鉄球団について、個性派ぞろいの猛牛戦士たちを率いてきた歴代監督を振り返りましょう。


近鉄は現在の2リーグ制となった1950年に、「近鉄パールス」として新しくパ・リーグに所属する球団として誕生。


パ・リーグは7球団でスタートしました。


阪急ブレーブス(現在のオリックスバファローズ)

南海ホークス(現在の福岡ソフトバンクホークス)

東急フライヤーズ(現在の北海道日本ハムファイターズ)

大映スターズ(現存しない)

毎日オリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)

西鉄クリッパース(現在の埼玉西武ライオンズ)

近鉄パールス(後の大阪近鉄バファローズ、現存しない)


初代監督には藤田省三が就任しました。


藤田はそれまで法政大学で指揮を執っていたため、関根潤三ら東京六大学出身の選手で編成。


しかし選手層は薄く、1年目は首位から37.5ゲーム差の最下位に終わりました。


翌1951年は6位の東急にわずか0.5ゲーム及ばず最下位。


3年目も30勝78敗と3割に満たない勝率(.278)で、3年連続の最下位に終わりました。


シーズン終了後には不振の責任を取り、藤田監督が辞任。


後任として芥田武夫が監督に就任しました。


芥田は大学、社会人でプレーしたが、プロ野球の選手、指導者の経験はなく、朝日新聞のスポーツ記者から迎えられました。


芥田政権1年目の1953年は最下位にこそ終わるが、48勝69敗3分けで勝率が初めて4割を超えました。


高橋ユニオンズが加わり8球団となった翌1954年には74勝63敗5分けで勝率5割超えを果たし、Aクラスの4位に入り、初の最下位脱出に成功しました。


だが、毎年Aクラスに入れるような地力はなく、翌年から2年連続の5位。


高橋ユニオンズは1956年限りで消滅、パ・リーグは7球団に戻りました。


1957年シーズン途中には芥田監督が休養となり、加藤春雄が代行を務めました。


チームは最終的に6位に終わりました。


この年の近鉄は球団消滅の危機に立たされていました。


この年のパ・リーグは7球団で、オーナー会議で大映の永田雅一オーナーが最下位球団を消滅させることを発案したのです。


結果的に大映が最下位となり、6位の近鉄は消滅を免れ、永田雅一は自分がオーナーをしていた球団を消滅させてしまうことになりました。


1958年は前年に監督代行を務めた加藤春雄が久幸に改名して、正式に監督へ就任。


しかし、球団史上最悪の勝率.238(29勝97敗4分け)の最下位に沈み、シーズン終了後に辞任しました。


1959年、後任として巨人の名二塁手だった千葉茂を監督に招聘。


千葉が現役時代に“猛牛”の異名をとったこともあり、球団名も「近鉄バファロー」に改め再出発を図ったが、あえなく最下位に終わりました。


翌1960年も最下位に沈むと、1961年にはシーズン最多敗戦記録かつプロ野球史上唯一の3ケタ黒星となる103敗を喫し、シーズン終了後に千葉監督は解任されました。


1962年、別当薫が監督に就任。


球団名を「バファロー」から「バファローズ」と複数形に変更したが、5年連続の最下位に終わりました。


翌年は3位の東映と1ゲーム差の4位と健闘するも、1964年は再び最下位に沈み、シーズン終了後に別当は辞任しました。


後任には「初代トリプルスリー」の岩本義行が就任するがチームは上向かず、岩本は2年連続最下位に終わり、1966年シーズン限りで辞任しました。


1967年、小玉明利が選手兼任で監督に就任。


近鉄初期からチームを知る小玉は低迷を脱する切り札として指揮官に抜擢されたが、4年連続の最下位。


オフに小玉は監督を辞任し、選手としても阪神へ移籍しました。


1968年、大洋ホエールズ(現在の横浜DeNAベイスターズ)を退団したばかりの三原脩を監督に招聘。


大洋時代と同様に序盤から首位争いを演じました。


最終的には4位に終わるが、4年連続最下位から脱することに成功。


翌年には阪急との優勝争いをシーズン最終盤まで繰り広げたが、惜しくも2位に終わりました。


オフには甲子園のアイドル・太田幸司投手(三沢高校)がドラフト1位で加入。


三原政権3年目は悲願の初優勝が期待されたが3位に終わり、シーズン終了後に三原監督は退任しました。


1971年、三原の後任としてコーチの岩本堯が監督に昇格。


1年目から3位に入ると、2年目には2位と連続Aクラス入りを果たしました。


迎えた3年目の1973年、前後期の2シーズン制が導入されたこの年、優勝候補の筆頭にも挙げられる中、シーズンに臨むも序盤から低迷。


8月には岩本が休養となり、島田光二が代理監督を務める事態となりました。


岩本はそのまま退任し、チームは前後期ともに最下位に終わりました。


1974年、阪急に黄金時代をもたらした名将・西本幸雄が監督に就任しました。


1年目こそ5位に終わったが、佐々木恭介、栗橋茂、羽田耕一ら後のチームの主力となる若手を鍛え上げました。


翌年、その成果が早くも表れ、初の後期優勝を飾りました。


プレーオフで阪急に敗れたため、年度優勝とはなりませんでした。


1977年は4位、78年は2位となって迎えた79年。


前期に優勝を果たすと、後期優勝の阪急と再び戦ったプレーオフで3連勝し、球団創設30年目にして悲願の初優勝🏆️を成し遂げました。


広島との日本シリーズでは第7戦までもつれるも、江夏豊投手に一打逆転サヨナラの好機を阻まれ(江夏の21球)、日本一になれませんでした。


翌1980年もリーグ優勝🏆️を果たすが、再び日本シリーズで広島に3勝4敗で敗れました。


西本は1981年も指揮を執るが、シーズン最下位に終わり監督を辞任しました。


1982年、西本の後任として関口清治が監督に就任。


1年目は大石大二郎選手ら若手を抜擢し、シーズン3位に入ったが、翌1983年は4位に終わり、この年限りで監督を辞任しました。


1984年からは蔭山和夫、飯田徳治、木塚忠助と共に100万ドルの内野陣と呼ばれ、南海の黄金時代を担った岡本伊三美が4年間指揮を執りました。


1984年4位、1985年3位、1986年2位と徐々に順位を上げていったが、4年目は最下位に終わり監督を辞任しました。


1988年、岡本の後を受けて前年コーチを務めていた仰木彬が監督に就任。


この年、黄金時代を築いていた西武とデッドヒートを繰り広げ、10月19日、ロッテとの最終戦ダブルヘッダーで連勝すれば優勝できるところまでこぎつけました。


第1試合に勝利し、迎えた第2試合。


延長10回時間切れにより4-4の引き分けに終わり、130試合目にして優勝を逃しました。


この戦いは「10・19決戦」として今も語り継がれています。


しかし、翌1989年に雪辱を果たし、9年ぶり3度目のリーグ優勝🏆️を達成しました。


日本シリーズでは巨人と対戦。


初戦から3連勝し初の日本一に王手をかけるも、そこから4連敗。


またしても日本一を逃しました。


仰木監督はその後1992年まで指揮を執るも優勝には手が届かず、この年限りで辞任。


後任には鈴木啓示が就任しました。


1993年、小玉明利以来26年ぶりの生え抜き監督となった鈴木だったが、初年度は4位に終わりました。


翌1994年は3位に入るもオフに主戦投手の野茂英雄投手がアメリカ大リーグへ移籍。


1995年はチームが低迷したため、鈴木は途中休養を余儀なくされ、チームも8年ぶりの最下位に沈没。


1996年からは佐々木恭介が監督に就任したが、初年度は4位に終わりました。


1997年、本拠地を藤井寺球場から大阪ドームに移転しました。


ドーム元年にチームは3位Aクラス入りを果たしたが、翌1998年は5位、地元密着を目指して「大阪近鉄バファローズ」に改称した1999年は4年ぶりの最下位に終わり、シーズン終了後に佐々木監督は辞任しました。


2000年、梨田昌孝が監督に就任したが、球団33年ぶりの2年連続最下位に沈没。


迎えた2001年、劇的なリーグ優勝🏆️を飾りました。


中村紀洋選手、タフィ・ローズ選手ら「いてまえ打線」が211本塁打と爆発。


最後は北川博敏選手の代打逆転満塁サヨナラ優勝決定本塁打で、4度目の優勝🏆️を決めました。


だが、日本シリーズではヤクルトに敗れ、日本一になれませんでした。


2004年にオリックスと合併する形で球団は消滅しました。


梨田昌孝が近鉄最後の監督となりました。


最終戦の試合前のミーティングで、梨田監督は選手たちにこう言いました。


「お前たちがつけている背番号は、全て大阪近鉄バファローズの永久欠番だ」


1950年から2004年まで55年間、パ・リーグの中では、最も長期間にわたって球団を保持していた近鉄。


日本一には最後まで手が届かなかったが、パ・リーグ、日本シリーズで繰り広げた数々の名勝負は、今も人々の記憶に刻みこまれています。