プロ野球歴代3位の通算567本塁打を記録し、南海ホークス(現在の福岡ソフトバンクホークス)、オリックスなどで活躍した門田博光(かどた・ひろみつ)氏が死去しました。
74歳でした。
40歳で44本塁打のプロ野球記録をマークした左の大砲。
44歳まで現役を続けて通算2566安打は歴代4位、本塁打王3度、打点王2度の輝かしい記録を残しました。
パワフルな打撃から「ポパイ」の愛称で親しまれた大打者が突然、天国へと旅立ちました。
関係者によると、兵庫県内で療養中だった門田さんは、予定された治療に姿を見せず、病院から通報を受けた警察官と消防隊員が自宅で倒れていたところを発見、その場で死亡が確認されたというそうです。
身長170センチとプロ野球選手としては小柄ながら王貞治選手(巨人)、野村克也選手(南海、ロッテ、西武)に次ぐ歴代3位の通算567本塁打をマーク。
中学、高校時代は本塁打を1本も打てなかったが、「努力することにウソはない」という信条のもと深夜の素振りなど地道な練習で打撃を磨き、3度の本塁打王、2度の打点王にも輝きました。
不屈の精神で、野球道を極めた職人でした。
門田博光さんは1948年2月26日生まれ、奈良県出身。
天理高校では3年夏に甲子園出場。
社会人のクラレ岡山に進み、1968年ドラフトでは阪急から12位指名を受けたが拒否、1969年のドラフト2位で南海に入団しました。
王選手を参考に一本足打法にしたプロ2年目に3番でレギュラーをつかみ、打率3割、31本塁打、120打点(打点王)で初のベストナインに選出されました。
2年目から打率3割超えで頭角を現しました。
1979年のキャンプ中にアキレス腱(けん)断裂に見舞われたが、背番号を27から44に変えた翌1980年に自己最多の41本塁打。
さらに1981年に同44本塁打と大けがをもバネにしました。
1983年には「シーズン60本塁打」という気概を示し、背番号を60に変えました。
1987年には南海の生え抜き選手では3人目の2000安打を達成。
不惑を迎えた1988年には自身初の全試合出場。
40歳の当時の世界記録(現在もプロ野球記録)で自己最多となる44本塁打、同最多125打点の2冠で史上最年長のMVPに輝きました。
この年、南海ホークスはダイエーに身売りされ、オリックスへ移籍しました。
その後、1991年にダイエーでホークス復帰を果たし、44歳までプレー、1992年に引退しました。
通算成績は2571試合(歴代9位)、2566安打(歴代4位)、567本塁打(歴代3位)、1678打点(歴代3位)、打率.289、本塁打王3回、打点王2回。
2006年に野球殿堂入りしました。
引退後は野球解説者や評論家を務めたが、現役時代から悩まされた持病の糖尿病や、2005年末には脳梗塞で倒れたこともあり一度は、野球業から離れました。
ただ闘病中の2006年には野球殿堂入りの表彰式でステージに立ち、「まずは体自身を健康に戻さないと。後進の指導には体力がいりますんでね」と宣言。
言葉通りに病魔を克服し、2009年には関西独立リーグ「大阪ホークスドリーム」の総監督に就任、2011年には監督も務めました。
けがも年齢の壁も乗り越えた大打者がこの世を去りました。
合掌。