巨人には知る人ぞ知る曲がありました。
かつて練習グラウンドと合宿所があった地名をとり、曲名は「多摩川ブルース」。
1番から8番まで続き、
「人里離れた多摩川に 野球の地獄があろうとは 夢にも知らないシャバの人 知らなきゃ俺らが教えましょう」
で始まります。
漫画「巨人の星」でも歌われていました。
V9戦士のリードオフマン、柴田勲氏が18歳の頃に作詞したものです。
「要するに合宿所の生活の貧しさ、いつも怒られた寮長の武宮敏明さん(故人)を風刺したんだよね。早く寮を出たかった。プロ野球でも二軍は、世間様が思う程カッコいいところじゃないよと。今考えると若かったですね。生意気な歌を作ったもんだなと思います」。
柴田氏は苦笑いで振り返ります。
法政第二高校から投手で入団も0勝2敗、防御率9.82の成績に終わり、1年目の途中で野手に転向し、スイッチヒッターに挑戦。
2年目の1963年6月に「1番・センター」に定着すると、ひそかに計画を練っていました。
「これで大丈夫。もうレギュラーになったんだから何を言われても関係ない。やはり一軍で活躍しないと反抗できませんからね。暮れの納会で、武宮さんの前で歌ってやろう」と思い立ちました。
高校3年の時、友人宅で聴いたレコードが元歌。
東京都練馬区にある東京少年鑑別所の過酷さを歌った「ネリカン(練鑑)ブルース」です。
友達は「レコードは出たけど、後に国から発売禁止になったんだ」と教えてくれました。
メロディーはそのままに、二軍での体験を詩で表現。
こうして“多摩川ブルース”が誕生しました。
柴田氏は、熱血指導で“鬼”とも呼ばれた武宮寮長と「しょっちゅう喧嘩をしていました」と回想します。
3番の歌詞はこうです。
「朝は八時に起こされて 廊下の掃除や拭き掃除 三度の食事も二度一度 挙句は食うなと怒鳴られる」。
当時の合宿所は古い木造2階建てでした。
すきま風が吹き込んで砂が入り、廊下はザラザラ。拭いても拭いてもキリがありません。
柴田氏はバケツの水を一気にまいた後にモップで拭いていました。
武宮寮長が「誰だ、きょうの当番は? まだ汚いじゃないか。ちゃんと拭いてないだろ」と声を荒げれば、「いや、拭きましたよ。もともと汚い。なんぼ掃除しても汚いんです」と突っかかりました。
寮長が「この野郎、お前あと3日間当番だ」と返しても、平然と「いいですよ」とバケツの水をまき、同じ事を繰り返しました。
夕食の時刻は、お昼が練習時間の二軍選手に合わせて午後6時。
しかし、一軍の柴田氏はナイトゲーム帰りのため帰宅は午後10時頃。
食事は冷たくなっていました。
若気の至りで「何だ、こんな飯。巨人軍がこんなまずい飯をよく出すな」と口走ったところ、武宮寮長は「嫌だったら食うな」。それでも「わかりました。食べません。外へ行って食べてきます」と応じました。
歌詞には「武ちゃん」「鬼の寮長」に加え、中尾碩志二軍監督(故人)の愛称の「つりちゃん」と“実名”が出てきます。
迎えた年末の納会。
柴田氏は満を持して本人たちの前で披露しました。
「2人とも嫌な顔をしてたんじゃないですかね」と悪戯っぽく懐かしみました。
「でも聴いている人たちも、みんなお酒を飲んでいたから全然覚えてないんじゃないかな」。
最後の8番では激しいサバイバルを綴っていました。
「一年二年は夢の内 だんだん消えてく同期生 今年は俺もあぶないと 夜も眠れぬオフシーズン」
柴田氏の寮生活は球団ルールの3年間より1年短く終了。
鬼の寮長も度胸満点で向かってくる若者が頼もしかったはずでした。
柴田氏は「卒業じゃないです。もう出ていけと言われました」と照れているが……。
二軍の悲哀が詰まった「多摩川ブルース」は歌い継がれました。
「巨人の星」では曲名や歌詞こそ微妙に変わっているものの、架空の登場人物が柴田氏が作ったと説明する場面があります。
「それは知らなかった。川上哲治監督、長嶋茂雄さん、王貞治さん、僕らも描かれていると聞いたことはありますけど」と驚きます。
プロ野球にとって秋はドラフト会議、補強やトレード、戦力外通告など来季に向けた編成が進む時期。
「僕が入った頃の巨人はチーム全体で平均の在籍年数が3年3か月でした。プロは厳しいというより毎年選手が入れ替わるから。10人を獲れば10人がクビになっていかなくちゃいけない世界」と柴田氏。
現在の各球団の寮について「キレイですよね。僕らとは天と地ですよ」と笑うが、時代や練習環境が変わっても、一軍を争うサバイバルだけは変わりません。