かつては民放でもたくさんの時代劇が放送されていました。
東映系作品では「水戸黄門」「大岡越前」「江戸を斬る」(TBS)、「遠山の金さん」「暴れん坊将軍」「三匹が斬る」(テレビ朝日)、「旗本退屈男」「銭形平次」(フジテレビ)、「服部半蔵影の軍団」「大奥」(関西テレビ)、「長七郎江戸日記」(日テレ)などがありました。
松竹系作品では「必殺仕事人」(朝日放送)、「鬼平犯科帳」「雲霧仁左衛門」「仕掛人藤枝梅安」「剣客商売」(フジテレビ)などがありました。
年末年始の特番でも、日テレの年末時代劇やテレビ東京の新春ワイド時代劇がありました。
ところが、制作が東映でも松竹でもない、異色の時代劇がありました。
それが、1981年4月から9月までフジテレビ系で木曜夜9時から放送された時代劇「江戸の用心棒」です。
加山雄三さん主演の「江戸の旋風」など、1975年4月以来この枠で続いていた「江戸シリーズ」と銘打った時代劇の7作目にあたります。
で、この「江戸の用心棒」、かなり特異な制作体制でした。
それは、「東宝が京都で制作した時代劇」です。
しかし、東宝はもともと京都に撮影所がありません。
東宝は映画制作ではなく劇場経営から始まった会社で、その劇場は宝塚歌劇の東京公演の際の劇場である東京宝塚劇場で、社名も東京と宝塚から一文字ずつ取ったものです。
それまでの6作も全て東宝による制作なのだが、実際には「ウルトラマン」シリーズの円谷プロダクションが制作を担当して、撮影スタジオは砧(東京都世田谷区)にある国際放映スタジオを使っていました。
しかしながら、この7作目の「江戸の用心棒」は、東宝のほかに、映像京都も制作にクレジットが入っています。
映像京都とは、旧大映京都撮影所のスタッフたちによる制作プロダクションで、実制作もそこが担当していることから、時代劇のメッカ、京都の太秦で撮られていたのです。
映像京都は、フジテレビが大映と制作し始めた「木枯し紋次郎」(1972~73年)の際に、1971年12月に大映が倒産してその救済策で「木枯し紋次郎」の監督を務めた映画監督の市川崑さん(故人)の提唱で誕生した経緯を持つことから、とりわけフジテレビとは結びつきが強かったです。
以降、勝プロダクション制作による勝新太郎主演「座頭市シリーズ」の実制作も手掛けていました。
それが途切れたころに再び廻されたのが、この「江戸の用心棒」でした。
東映は太秦(京都市右京区)に東映京都撮影所(この中に東映太秦映画村があり、撮影にも使われる)と大泉(東京都練馬区)に東映東京撮影所があり、松竹は京都の太秦に松竹京都撮影所(1980年代当時の名称は、京都映画撮影所)とかつては神奈川県鎌倉市に松竹大船撮影所があったように、大手の映画会社は東西に撮影所を持っていました。
しかし、東宝は世田谷区の砧に東宝撮影所があり、近隣には東宝ビルトや国際放映スタジオなど関連施設も多かった一方、関西方面では京都に撮影所を持たず、東宝ではなく阪急電鉄の子会社として兵庫県宝塚市に宝塚映画製作所を持っていました。
邦画全盛期、1950~1960年代のころは大規模な撮影所を建てて、東宝系で公開される劇場用映画から黎明期のテレビドラマまで幅広く制作していました。
撮影所は大部分が隣接する遊園地の宝塚ファミリーランド🎠🎡🎢の中にあり、スタジオが同遊園地のイベント会場にも使われていました。
しかし、テレビの普及によって映画産業は衰退、制作規模も撮影所の規模自体も大幅に縮小され、1968年に劇場用映画からは撤退しました。
その後は親会社の阪急グループのCM(阪急電鉄、阪急百貨店、阪急不動産など)と阪急電鉄の一社提供の30分ドラマ「阪急ドラマシリーズ」(1965~1994年、関西テレビ)を中心に制作していました。
「阪急ドラマシリーズ」はスポンサーの関係上、阪急沿線が舞台だったりしました。
「1・2・3と4・5・ロク」「ズッコケ三人組」「怪人二十面相と少年探偵団」などの原作のある作品でも、ドラマの舞台は阪急沿線に置き換えられていました。
おもに兵庫県宝塚市、西宮市、川西市で撮影されていました。
阪急の路線でいうと、宝塚本線・川西能勢口~宝塚間、今津線、神戸本線・西宮北口~夙川間、甲陽線に相当します。
宝塚歌劇団の生徒が主役級の役で出演することもありました。
もちろん、純名里沙さんが宝塚歌劇団在籍のまま主演したNHK連続テレビ小説「ぴあの」が放送されるよりもずっと前のことです。
阪急電鉄のCMにも宝塚歌劇団の生徒が出演することが多かったです。
宝塚歌劇団の生徒は阪急電鉄の社員でもあり、広報活動の一翼を担っているのです。
1978年に一度だけ、京都の太秦界隈とも宝塚映画とも関りが深い大和新社という関西の老舗制作プロダクションが入って宝塚映画で「お吟さま」(熊井啓監督)という時代劇の劇場用映画を制作して東宝系で公開したのだが、普段作っていた「阪急ドラマシリーズ」は時代劇はなく、全て現代劇でした。
この「お吟さま」があるから全くというわけではないけれど、当時の東宝は関西においてほとんど時代劇を制作していなかったのです。
しかし、東宝と並んで映像京都も制作に入ってきたから、それが世にも珍しい「東宝が京都で制作した時代劇」と相成ったのです。
東宝は、クレジット上は同格でありながらも実質は下請け扱いだった映像京都に丸投げしていたわけではなく、「江戸シリーズ」のスタッフを派遣していました。
監督では高瀬昌弘さんと児玉進さん、そして撮影技師として内海正治さんまで。
本体の東宝撮影所や関連会社の国際放映スタジオがある世田谷の砧界隈くらいでしか仕事してなかった彼らが、すでに何十年も前からムラ社会が形成されている京都の太秦に乗り込んでいったのは恐れ入ります。
しかし、この「江戸の用心棒」が足がかりとなって、後年の1989年からは、かつて「江戸シリーズ」のプロデューサーだった市川久夫さんが携わり、元映像京都社長の西岡善信さん(故人)が常務取締役となった京都映画で実制作を手掛けた大ヒット作「鬼平犯科帳」にメイン級のスタッフで、その腕を振るうことになりました。
その「鬼平犯科帳」以降、フジテレビの時代劇は主に松竹で制作されるようになりました。
映像京都は社長の西岡善信さんの高齢化や時代劇制作の減少のため、2010年8月31日限りで会社を解散しました。
一方の宝塚映画製作所は経営不振のため1983年に会社を解散、代わって宝塚映像が設立されました。
しかし、宝塚映像も1995年1月17日に発生した阪神大地震の影響で制作規模を大幅に縮小せざるを得ず、さらに2003年には宝塚ファミリーランドが閉鎖されスタジオも同時に閉鎖されました。
その後は阪急三番街の大型ビジョン「ビッグマン」 の保守・管理、阪急系企業の広報映像の作成、人権・啓発を題材とした映画の製作、「阪急ドラマシリーズ」を放送するCS放送ファミリー劇場や各テレビ局からの放送料の収入、東宝と国際放映の制作作品の制作協力を主な業務としていたが、阪急阪神グループの事業再編の余波もあってか2013年2月末で会社を解散しました。