プロ野球、最多敗戦、最低勝率は? | 女装男子かなこのブログ

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開幕9連敗という厳しいスタートになった阪神タイガースの苦闘が続いています。


一時は勝率が1割を下回るほどでした。


開幕から30戦を終え、9勝20敗1引き分け、勝率.310(4月30日時点)と苦しい序盤戦となりました。


しかし、長いプロ野球の歴史を紐解くと、様々な要因で負けを重ね、苦しいシーズンを送ったチームも数多く存在します。


1950年の2リーグ制後、日本プロ野球における過去のシーズン最低勝率と最多敗戦数を紐解いてみましょう。


プロ野球は1960年代まではチーム間の戦力の格差が大きく、そのため優勝チームと最下位チームとの間で大差がつくことがよくありました。


まずは勝率から見ていきましょう。


○シーズン最低勝率ワースト5 

1958年・近鉄 勝率.238(130試合 29勝97敗4分) 

1955年・大洋 勝率.238(130試合 31勝99敗0分) 

1954年・洋松 勝率.250(130試合 32勝96敗2分) 

1961年・近鉄 勝率.261(140試合 36勝103敗1分) 

1970年・ヤクルト 勝率.264(130試合 33勝92敗5分)

(いずれもリーグ最下位)


シーズンの最低勝率は1958年の近鉄パールス(130試合29勝97敗4引き分け)と1955年の大洋ホエールズ(130試合31勝99敗)が記録した.238がワーストとなっています。※1958年は引き分けを0.5勝と計算。 


1955年のセ・リーグは巨人が92勝37敗1引き分けと圧倒的な成績で優勝したが、最下位の大洋は4月こそ負け越し3の5位だったものの、7月に球団タイ記録の14連敗を喫するなど、浮上のきっかけをつかめず、最終的に優勝した巨人にプロ野球最大の61.5ゲーム差をつけられました。


この年の大洋の勝率.238は2リーグ制後のプロ野球史上最低、いずれもリーグ最低のチーム打率.209、チーム安打886本、チーム本塁打51本、チーム打点265点、チーム得点290点、打撃ベスト10入り選手は皆無という貧打に泣き、投手陣もチーム防御率はリーグ最下位の3.69、2桁勝利投手は1人だけ、特にプロ3年目の左のエース、権藤正利投手は同年7月9日広島戦から1957年6月2日阪神戦まで、足かけ3年間で28連敗のプロ野球記録を作ってしまいました。


ここまで弱くなった要因として、松竹ロビンスとの合併が影響しているようです。


1953年に大洋松竹(洋松)ロビンスとしてスタートしたが、大洋と松竹の選手同士の反目があり、雰囲気は良くなかったようです。

 

1954年も優勝した中日から55ゲームも離され最下位に沈み、その年、松竹が資本を引き揚げ、元の大洋ホエールズに戻りました。


1955年も心機一転というより、選手や関係者も解雇やトレードも含め、球団を維持することが目標になり、ペナントレースを戦う余裕などなかったかもしれません。


1958年の近鉄は「近鉄パールス」としての最終年。


開幕から最下位に沈み、最終的には優勝した西鉄から49.5ゲーム離されました。


歴史的な敗戦数を喫した翌年からは、巨人コーチだった千葉茂を監督に迎え、「近鉄バファロー」に改称しました。


ちなみに上記の2チームに続くのは1954年の洋松ロビンスで、勝率.250。


次いで1961年に近鉄バファローが記録した.261となっています。


1970年のヤクルトアトムズは、巨人の大エースだった別所毅彦監督が率いて3年目だったが、8月に入ってシーズン2度目の11連敗と負けが込んで解任されました。


このほか、1950年の2リーグ制後、シーズン勝率3割未満となった球団は次の通りです。


1950年 広島 41勝96敗1引き分け 勝率.299

1952年 松竹 34勝84敗2引き分け 勝率.288

1952年 近鉄 30勝78敗0引き分け 勝率.278

2005年 楽天 38勝97敗2引き分け 勝率.281

(いずれもリーグ最下位)


このうち、1952年の松竹ロビンスは、1950年は98勝35敗4引き分け、勝率.737の独走で初代セ・リーグ制覇をしたが、翌年にはチームの不協和音が流れ、加えて主力選手の相次ぐ退団で急激に弱体化、1952年には7球団を6球団にするための勝率3割未満のチームは解散という取り決めにより、大洋ホエールズと合併して消滅しました。



続いてシーズン最多敗戦数を見てみましょう。


○シーズン最多敗戦球団ワースト5 

1961年・近鉄 103敗(140試合 36勝1分) 

1955年・大洋 99敗(130試合 31勝0分)

1956年・高橋 98敗(154試合 52勝4分) 

1955年・トンボ 98敗(141試合 42勝1分)

2005年・楽天 97敗(136試合 38勝1分)

(いずれもリーグ最下位)


日本プロ野球史上唯一の3ケタ黒星を喫したのは、1961年の近鉄バファローで103敗(36勝1引き分け)です。


開幕4連敗したチームはその後も浮上することなく、阪急と最下位争いを演じました。


6月以降は3度の10連敗を喫し(そのうち、2つは間に1勝を挟んだだけで、21連敗の恐れもあった)、10月にはついに100敗に到達して最終的には優勝した南海に51.5ゲーム差を付けられました。


36勝はこの年のパ・リーグ最多勝利、稲尾和久投手(西鉄)の42勝(プロ野球記録)を下回りました。


なんとも不名誉な記録!


同年の近鉄は千葉茂監督の3年目だったが、3年連続最下位で、当然ながら解任されました。


千葉監督は最悪の状況でも待遇面も含めて、プロの選手のプライドを育てていこうと努力したが、監督の思う「巨人主義」に選手の反発が最後まであったのでしょう。


戦力はアップしていっているのに結果が全く付いてきませんでした。


千葉監督は、球団に強くするためには、もっと選手や設備に投資しなくては効果が出ないことを訴えていたようだが、球団はそこまで投資するつもりはありませんでした。


当時、千葉監督が思っていた最先端の野球を、最弱球団近鉄に導入するには早すぎたのかもしれません。

 

長く染み込んだ「負け犬根性」は、選手も球団にも千葉監督の3年間でも払拭できませんでした。


そして、千葉監督自身も常勝巨人の野球の世界が世間の常識のように、いきなり近鉄球団に持っていき、現場との溝が広がり、最後まで修正できませんでした。

 

その後、千葉茂は監督の仕事はしていません。


千葉茂の野球殿堂入りが1980年と遅れ、それが競技者表彰(記者投票で決定)ではなく特別表彰(選考委員の選考により決定)になったのも、それが影響しているかもしれません。


これに続くのが、ワースト勝率でも登場した1955年の大洋ホエールズの99敗、そして、1955年のトンボユニオンズ、1956年の高橋ユニオンズの98敗です。


高橋ユニオンズは1954(昭和29)年の開幕前に急きょ結成されました。


誕生の背景には、当時のパ・リーグが7球団で、日程が組みにくかったということがあります


「日本のビール王」と称された高橋龍太郎オーナーが、球界発展のために私財を切り崩してチーム運営をしたが、創設初年度の1954年こそ140試合53勝84敗3引き分け、勝率.387で、8チーム中6位になったものの、トンボ鉛筆がスポンサーとなりトンボユニオンズに球団名が変わった1955年は141試合42勝98敗1引き分け、勝率.300、トンボ鉛筆がスポンサーから撤退して高橋ユニオンズに戻った1956年は154試合52勝98敗4引き分け、勝率.351で、いずれも最下位の8位。


この年限りでチームは解散しました。


わずか3年、しかも3年間全てBクラス、そのうち2度は最下位と惨々たるもので、「最弱球団」と揶揄されました。 


高橋ユニオンズは球団結成に際し、集められた選手が他球団を戦力外にされた選手ばかりだったため、人気も実力も低迷、1試合の観客が100人に満たないこともざらでした。


当時のパ・リーグには「勝率.350を割り込めば罰金500万円」という規定があったが、1955年のシーズンは10月2日の時点で、勝率.350を割り込むことが確定しました。


当時の大卒初任給が1万3000円程度、最近は22万円ほどだから、今に換算すれば8000万円くらいになるでしょうか。 


平成以降では球団創設1年目だった2005年の楽天の97敗(38勝1引き分け)、勝率.281が目立ちます。


ともに平成以降の最多敗戦、最低勝率です。

 

2005年の楽天はチーム創設1年目であり、選手は前年に消滅した大阪近鉄バファローズとその近鉄を合併したオリックスブルーウェーブ(現在のオリックスバファローズ)から分配ドラフトで選ばれた選手とドラフト指名選手、そしてトレードや他球団から戦力外通告を受けた選手、助っ人外国人選手を獲得したが、戦力不足は否めず、田尾安志監督も監督としては全く未経験でありシーズン終了を待たずに解任され、チームは最下位かつ勝率が3割を下回りました。


今年の阪神は戦力的にみても、最下位に低迷するチームではないはずです。


コロナ禍での戦力ダウンは致し方無いが、何とか浮上のきっかけをつかんでセ・リーグを盛り上げてほしいところです。 


なお、1949年までの1リーグ時代では、さらに低い勝率を記録したチームが存在します。


1937年のイーグルス(現存しない)は56試合を戦い、12勝44敗0引き分けで勝率.214。


後楽園といえば読売ジャイアンツの本拠地という印象が強いが、イーグルスも本拠地として使用していました。

このシーズンの勝率のみを見ると絶望的に思えるが、同年の秋シーズンには28勝19敗2引き分けで勝率.596、8球団中3位に入る好成績でした。


草創期の出来事とはいえ、きっかけをつかめば大きく浮上する可能性もあるという例としてあげることができるでしょう。