民放の「ゆく年くる年」 | 女装男子かなこのブログ

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昭和の時代、年越しテレビ番組はたった2つしかありませんでした。


NHKと民放がひとつずつ、しかもタイトルは同じ「ゆく年くる年」です。


昭和の大晦日、夜11時45分からの民放はどのチャンネルに合わせても同じ番組しかやっていませんでした。


これはテレビの故障ではありません。


一家こぞってこの「ゆく年くる年」(NHK、民放とも)を見ながら元日の0時を迎えるのが恒例行事であり、子どもたちにとっても年に一度、親公認で夜ふかしが許された特別な時間でありました。


番組の元ネタとなったのはラジオ東京(現TBSラジオ)と文化放送の2局が1952(昭和27)年に始めた「新年の鼓動」です。


翌1953年に「ゆく年くる年」とタイトルを改め、各地のラジオ局をリレー形式で結んで放送されました。


これが、民放ラジオが初めて全国中継を行った本格的ネットワーク番組の第1号でありました。


民放版「ゆく年くる年」は在京キー局が輪番制で年越し向けの番組の制作に当たり、それを全国の民放テレビ局が同時放送していました。


終了当時、民放全局フルネットの番組はこの番組と、4月21日の放送広告の日(現在の民放の日)の特番及び「民放連会長あいさつ」のみでした。


毎年、あるテーマに沿った内容で全国各地からの中継を展開していました。


新聞・雑誌の番組表も、局と局の間の線を無くして長めの表になっているものがありました。


第1回放送から最終回まで一貫してセイコー(服部時計店→服部セイコー→セイコー)の一社提供でした。


そのため、カウントダウンや時報にはセイコーの時計が使用されていました。


また、年越しの瞬間に同社の関連施設である東京・銀座の和光の時計台がバックに映っていたことがありました。


民放版「ゆく年くる年」の第1回は1956(昭和31)年、日本テレビとラジオ東京テレビ(現在のTBSテレビ)の共同制作でした。


放送は日本テレビ、ラジオ東京テレビ、大阪テレビ(現在の朝日放送)、中部日本放送(CBC)の4局でした。


ラジオ東京テレビは浅草観音、日本テレビは銀座、中部日本放送は名古屋テレビ塔と熱田神宮、大阪テレビは道頓堀から、各局3台=計12台のカメラで3大都市の表情を中継しました。


これが最初の民放テレビ共同制作でもありました。


また、初期の段階では、幹事社は置くがお互い対等な立場で共同制作、という枠組みでありました。


少数の民放テレビが団結してのNHK対策という意義もありました。


1959(昭和34)年から、同年に開局のNET(日本教育テレビ、現在のテレビ朝日)が加わりました。


しかし、フジテレビだけはしばらくの間制作・放送には加わらず、同じセイコーからの提供番組でありながら独自の番組を放送していました。


理由は、フジテレビの時報スポンサーが同業のリズム時計工業(CITIZENブランド)だったからです。


その後、1971(昭和46)年にようやく参加し、これをもって初の5系列と独立UHFの民放全局放送となりました。


東京12チャンネル(現・テレビ東京)は他局制作分の番組を流すだけの受け局でしたが、1974年(昭和49)から制作に参加しました。


特筆すべきものとして、1980年末~1981年初めの日本テレビ制作のものは当時人気のあった「ズームイン!!朝!」に近い構成になったというそうです。


1979/1980(昭和54~55)年の「ゆく年くる年」に続いて、1980年1日1日午前1時より、東京放送(TBSテレビ)が幹事局となって、当番組の事実上の第2部として「'80年未来をこの手に!」がライオン(同日、ライオン歯磨とライオン油脂が合併・統合してライオン株式会社が発足した)の単独協賛にて全局で放送されたが、滋賀県の独立UHF局のびわ湖放送においては当時、リン含有の合成洗剤が環境破壊に影響するという理由で、大株主である滋賀県の理解を得られなかったとして放送中止となりました。


これは当時、放送業界で「たった1局の反乱」と呼ばれました。


同番組の冒頭で、司会の西田敏行さんが「全民放92局を結んでお送りします」と挨拶したが、当時の民放テレビは全93局で、嘘を承知しての挨拶でした。


1987年末~88年初めのフジテレビ制作のものは、JNN加盟局があるにも関わらずニュースが放送されました。


JNN(TBS)系列局は、他系列の制作したニュースを放送してはならないという「JNN排他協定」があるのですが、この場合は特例で認められたのでしょう。


1984年末~85年初めのテレビ東京制作のものは、系列局が4局しかなかったものの、午前0時前後に全国各地の映像を入れました。


長らく民放局共通の年越し番組として君臨し続けた同番組でしたが、1988年末に行われた5社営業局長会において、次回(1989/1990年)の制作幹事局であったテレビ東京から番組制作の辞退の申し入れがあり、スポンサーのセイコーも了承、翌1989年3月に番組の終了が発表されました。


このため、最終回は1988/1989年(昭和63~64)の放送(テレビ朝日制作)となりました。


結果的に、昭和最後の年越しが最終回となりました。


終了の理由は年々高騰する制作費が予算や提供料金を超過(いわゆる採算割れ)しており、各局に負担となっていた事が挙げられました。


また、視聴率競争が激しくなる中独自の番組を放送したいという要望もあり、ネットワーク5局が同じ番組を放送するという編成も時流に合わなくなっていました。


翌1989/1990年(平成元~2)からは各放送局で独自の内容の年越し番組を制作・放送しています。


生放送だったのと使いまわしの2インチVTRによる録画だったため、現存する映像素材はかなり限られており、現存する映像は1967年末~68年初めの日本テレビ制作版、1969年末~70年初めのNET制作版、1970年末~71年初めの日本テレビ制作版(モノクロ・キネコ版)と、1975年末~76年初めの日本テレビ制作版のVTRが残っているだけだというそうです。



年度毎の主な内容及び制作局は以下の通りです。(放送年は旧年基準、出演者は敬称略)


1956年・日本テレビ/ラジオ東京テレビ(司会・森繁久彌)

1957年・日本テレビ(司会・森繁久彌、幸田文)

1958年・ラジオ東京テレビ(司会・フランキー堺)※ラジオも同時放送

1959年・日本テレビ(司会・フランキー堺、朝丘雪路)※NETが参加

1960年・TBS(司会・森繁久彌、朝丘雪路)

1961年・日本テレビ(司会・秋山ちえ子)

1962年・TBS(司会・坂本九)

1963年・NET(司会・森繁久彌)

1964年・日本テレビ(司会・三木鮎郎、小島正雄、坂本九、植木等)

1965年・TBS(司会・山村聰)

1966年・NET(司会・木島則夫、小林桂樹)

1967年・日本テレビ(司会・坂本九、吉永小百合)

1968年・TBS(司会・古谷綱正、池内淳子、沢田雅美)

1969年・NET(司会・竹脇無我、栗原小巻)

1970年・日本テレビ(司会・高橋圭三、ザ・ドリフターズ)

1971年・TBS(司会・堺正章、井上順之、コント55号、ザ・ドリフターズ)※この年から全民放局同時ネット

1972年・フジテレビ(司会・小川宏、高峰三枝子)

1973年・NET(司会・高島忠夫、黒柳徹子)

1974年・東京12チャンネル(司会・石坂浩二、うつみ宮土理)

1975年・日本テレビ(司会・高島忠夫、仁科明子)

1976年・TBS(司会・田宮二郎、山口百恵)

1977年・フジテレビ(司会・渥美清、夏目雅子、露木茂)

1978年・テレビ朝日(司会・萩本欽一、檀ふみ)

1979年・東京12チャンネル(司会・関口宏、浅茅陽子)※総監督を市川崑が担当

1980年・日本テレビ(司会・渡辺謙太郎、金子勝彦、露木茂、溝口泰男、徳光和夫)

1981年・TBS(司会・古谷一行、中原理恵、星野知子)

1982年・フジテレビ(司会・小川宏、ビートたけし、俵孝太郎、ジャイアント馬場、田丸美寿々)

1983年・テレビ朝日(司会・武田鉄矢、名取裕子)

1984年・テレビ東京(司会・市川猿之助、桂文珍/中井貴恵)

1985年・日本テレビ(司会・加山雄三、徳光和夫)

1986年・TBS(司会・仲代達矢、大地真央、小泉今日子)

1987年・フジテレビ(司会・逸見政孝、笑福亭鶴瓶、榊原郁恵)

1988年・テレビ朝日(司会・西田敏行、富田靖子、小宮悦子)


最終回にあたる第33回がネットされた局は103局でした。


そのネット当時・現在の双方の系列で見ると、ネット当時の局数ではTBS系列が25局・日本テレビ系列のフルネット局が20局・フジテレビ系列のフルネット局が21局・テレビ朝日系列のフルネット局が12局・テレビ東京系列が4局・クロスネット局が10局・独立UHF局が11局でした。


現在の局数ではTBS系列が28局・日本テレビ系列のフルネット局が27局・フジテレビ系列のフルネット局が26局・テレビ朝日系列のフルネット局が24局・テレビ東京系列が6局・クロスネット局が3局・独立UHF局が13局です。


特にテレビ朝日系列のフルネット局が大きく増えたのが目立ち、平成に開局した系列局数で見るとTBS系列が3、日本テレビ系列が3、フジテレビ系列が2に対しテレビ朝日系列は11(この他にネットチェンジが1)です。


私の家では、年末のテレビはいつも「NHK紅白歌合戦」とNHKの「ゆく年くる年」を見るのがいつものルーティーンでした。


1度だけ、妹の発案で民放の「ゆく年くる年」を見ました。


何年のものかは覚えていません。


また、「ゆく年くる年」を見ずに近くのお寺へ除夜の鐘を撞きに行ったこともありました。


そのお寺は私の家の菩提寺と同じ宗派だったので、父が亡くなった時にそのお寺のご住職さんに葬儀で読経をお願いしました。