2021年6月24日の朝、クイズファンに激震が走りました。
「『パネルクイズ アタック25』(朝日放送・テレビ朝日系)、今秋で放送終了決定!」というニュースが飛び込んできたのです。
これは、かつてテレビ界で一世を風靡した「視聴者参加型クイズ番組」のレギュラー放送が、ほぼ絶滅するということを意味します。
クイズ番組隆盛と言えど、現在、視聴者が中心となって参加するものは「超逆境クイズバトル99人の壁」(フジテレビ系)や毎年夏に放送される「全国高等学校クイズ選手権」(日テレ系)くらいしかありません。
ただ「99人の壁」はマニアックな知識を競う内容で、単純に一般的な雑学知識を競うクイズ番組ではありません。
それに、「99人の壁」は本来は視聴者参加なのに、最近は出場者をスカウティングで選ぶことが多くなり、視聴者参加はほとんど有名無実となっています。
「東大王」(TBS系)も当初は視聴者参加だったが、それはすぐ廃止されました。
今、クイズ番組といえば「世界ふしぎ発見!」「東大王」(ともにTBS系)、「ネプリーグ」「今夜はナゾトレ」「潜在能力テスト」(いずれもフジテレビ系、「今夜はナゾトレ」「潜在能力テスト」は全国ネットだが関西では非放送)、「クイズプレゼントバラエティーQさま!」「くりぃむのクイズミラクル9」(いずれもテレビ朝日系)、「あなたは小学5年生より賢いの?」(日テレ系)、「クイズ脳ベルSHOW」(BSフジ)など、芸能人が出場するクイズ番組ばかりです。
9月で終了が決まっている「ぴったんこカン★カン」(TBS系)はクイズというより旅バラエティと化してしまいました。
「チコちゃんに叱られる」(NHK)がネット記事ではよくクイズ番組として扱われているが、番組ジャンルとしては「クイズ番組」ではなく「その他のバラエティ番組」となっており、NHKも番組としての正解を求めていません。
「ベルトクイズQ&Q」「クイズダービー」「クイズ100人に聞きました」「ぴったしカン★カン」「ザ・チャンス」「スーパーダイスQ」(いずれもTBS系)、「アップダウンクイズ」(毎日放送・テレビ朝日系→TBS系)、「クイズタイムショック」(テレビ朝日系)、「世界一周双六ゲーム」「三枝の国盗りゲーム」(ともに朝日放送・テレビ朝日系)、「アメリカ横断ウルトラクイズ」(日テレ系)、「クイズグランプリ」「クイズ・ドレミファドン」「クイズ$ミリオネア」「カルトQ」(いずれもフジテレビ系)、「連続クイズホールドオン」(NHK)など、かつて多くの視聴者参加クイズ番組が存在していたことが嘘のようです。
中には視聴率が振るわなかったり、出場者が集まらず短命に終わった番組もあります。
しかし、なぜ「アタック25」だけが今まで生き残ってきたのでしょうか。
「アタック25」は、地上波におけるクイズ番組の世界においては、国宝級の存在であり、金字塔であり、そして、特に1990年代以後は視聴者参加型クイズ番組が激減して絶滅危惧種となっていた中で続けられてきた貴重な存在でもあったのです。
番組のスタートは1975年4月6日。
これは前番組の「クイズ・イエスノー」(毎日放送・テレビ朝日系)が1975年4月の大阪ネットチェンジ(朝日放送と毎日放送のネット交換)により終了、番組スポンサーが朝日放送・テレビ朝日系で児玉清さん司会の番組の継続を求めてきたため生まれたものです。
ルールは、言うまでもなく、早押しクイズにオセロゲームをベースにしたもの。
いわば、4人で25枚のパネルを取りあうオセロゲームです。
オセロですから、最終的にいちばん多くのパネルを取った人が優勝、海外旅行✈️👜を懸けた最終問題に挑みます。
1975年の番組開始以来、優勝賞品の海外旅行は「エールフランスで行くパリ🇫🇷」が番組の代名詞のような賞品でした。
1995年以降は、アメリカ、ヨーロッパ各国、地中海クルーズ、ハワイと変遷しました。
いずれも、「あこがれの」という言葉にふさわしい、豪華な旅行でした。
クイズの正解数が多い解答者が必ずしも優勝するわけではなく、一発逆転があるルールは、番組のスタート時から完成度が高かったのです。
特に、20枚のパネルが埋まったところに設定された、クイズに正解すると他の人のパネルを1枚消す「アタックチャンス」が、多くの逆転劇を演出してきました。
初代司会者・児玉清さんの司会ぶりはまさに名人芸でした。
「大事な、大事な、アタックチャンス!」「なぜ、角を取らない!?」「なにか、深いお考えがあってのことか……」などの名調子は、博多華丸さんのモノマネのネタにもなりました。
さらに、クイズ問題の難易度が「難しすぎず、簡単すぎず」、絶妙なレベルだったことも人気の要因だったと思います。
番組で構成を担当している放送作家の高見孔二さんは、「問題の難易度をあえて高くはしていない」と言います。
正解が出ないと次に進まないし、解答者も何も答えが分からないと気落ちしてしまう、易しい問題でも答えられたら本人の気持ちも盛り上がることを意識しているそうです。
番組の問題アドバイザーで放送作家の山口牧生さんは、新聞だけでなく週刊誌や芸能誌にも目を通して問題のネタを集めていますし、「女性が答えられる問題がいい問題です」と言います。
山口さんは前記の「アタックチャンス」の発案者で、番組が始まってから半年後に放送時間が5分拡大されるため、それをどうやって埋め合わせようか、制作会議で検討していた時に山口さんが「クイズに正解すると、他の人のパネルを1枚消すようにするとおもしろいのではないか?」と提案したのです。
作家の西沢泰生さんはサラリーマン生活をしていた頃、「アタック25」に出場し、優勝、賞品のパリ旅行も獲得しました。
しかし、最近はタレント大会が多く、西沢さんは「アタック25」を見ていませんでした。
以前はよく通っていて、近ごろ、足を運ばなくなっていたおいしいお店が「コロナで閉店する」と聞いたような、なんとも寂しい思いをしています。
西沢さんが「アタック25」に出演したのは、1983年のことでした。
当時は視聴者参加型のクイズ番組が花盛りで、「アメリカ横断ウルトラクイズ」の参加者数が第7回にして初めて1万人超えを記録したのもこの年でした。
このころは、どこのクイズ番組も、予選の参加者全員に番組のロゴが入ったバッグや腕時計などの「お土産」をくれるのが普通でした。
西沢さんがアタック予選を受けたときの記念品はすごく丈夫な手提げ袋で、ずいぶん愛用したそうです。
のちには、クイズ番組の予選の記念品は、どこもボールペンになりましたから、やはりこの頃のクイズ番組には勢いがあったのでしょう。
まだ電子メールなんてない時代です。
予選を受けてからしばらくして、合格通知のハガキが届き、ある夜、スタッフから「〇月×日に大阪のスタジオで収録に参加できますか?」という確認電話があって、収録日が決定しました。
収録は基本的に隔週木曜日、1日2本撮りです。
当日は、大阪まで新幹線で向かい、タクシーで当時は大淀にあった朝日放送へ。
控え室での待ち時間はとても長かったと西沢さんは覚えています。
スタジオ入りすると、そこには、観客と児玉清さんがいました。
テレビの印象どおりの紳士で、スタッフと最後の打ち合わせをしていました。
その後、カメリハ(本番と同じ条件で撮影をしながら行うカメラ・リハーサルの略称)として、数問の早押しクイズ。
当時のスタジオセットは応援席が解答者席の後ろにあり、スタジオの観客たち(ほとんどは大阪のご婦人方)は、この様子を見て、出場者4人のうち、誰の後ろの応援席に座るかを決めていたようです。
優勝した解答者の応援席に座った観客には、当時の番組スポンサーの東リから、カーペットのお土産が出たのです。
児玉さんはいかに名司会ぶりだったのでしょうか。
西沢さんが録画していたビデオから、ほぼそのまま再現すると…。
西沢さんがアタックチャンスと、その次の問題に正解した部分です。
児玉「アタックチャンスからまた新しい局面が生まれます、果敢にアタックしてください。それでは、参りましょう。アタックチャンス!」
相沢純子さん(出題者)「1874年の10月30日、カール・プッセの「山のあなた」など数々の……」
ボーン(解答ボタンを押した音)
児玉「青(西沢さんの解答者席の色)」
西沢「上田敏(びん)」
児玉「その通り!数々の詩の名訳で知られる我が国の文学者が生まれています。誰でしょう? 上田敏!白の方も押されたんですが、青の方が早かった。青の方、何番?」
西沢「25番」
児玉「25番を埋める!そして、アタックチャンスの狙い目は?」
西沢「1番」
児玉「あー、そりゃそうですなぁ。どうでしょうか、この1番に青の方が入ってくると……。んー、パーフェクトはないようでございますが、ガガッというように青になってしまうわけですね。さあ、ここが空いたことによって、ほかの方にもチャンスが生まれるのか?今のところは青が有利ですけれども、ひっくり返せるチャンスがあると思います。よろしいですか、アタックチャンス後の問題が大事です。この問題です」
相沢「ジロウ、ハチヤ……」
ボーン!
児玉「青!」
西沢「……柿」
児玉「その通り!早い!うーん、グングンきます。グングンきます。さあ、青の方、何番?」
西沢「1番」
児玉「1番に飛び込むー!2、3、4、7!うわわ、バラバラっと色が変わって、真ん中の8番だけがパーフェクトを阻止しておりますが、わたくしは問題のフォローができませんでした。ジロウ、ハチヤ、フユウといえば、どんな果物の名前(品種)でしょうという問題でございました。もう、ジロウとでた瞬間に柿と……。えー、素晴らしい、果敢なアタックぶりでございました。よろしいですか、これで勝負は決まったようでございますが、1枚でも多くのパネルを皆さん取ってください。参りましょう、この問題です」
普通、クイズ番組では、解答のあとに正解音が鳴るのですが、「アタック25」ではそれがなくて、児玉さんの「その通り!」とか「お見事!」などが正解音代わりでした。(司会者が代わった現在も同じ)
解答者がクイズに正解すると「その通り!」と言ったのは、「通り」が「東リ」に通じるからで、東リのスポンサー降板後も、児玉さんは晩年まで使っていました。
それにしても、短い時間で的確に戦況を視聴者に伝え、問題文の先までフォローする司会ぶりは本当に名人芸です。
誤答のときのブザーを鳴らすのも児玉さんの役で、きわどい解答のときの正誤判定も、児玉さんの裁量に任されていたようです。(司会者が代わった現在も同じ)
西沢さんの回の収録でも、「何県でしょう?」と問う問題に対して「筑波学園都市」と答えた方がいて、児玉さんは「うん、いいでしょう。筑波研究学園都市ということで、筑波学園が出れば結構でございます」と言って正解にしていました。
なんだか、人情というか、人柄までも感じさせてくれる司会ぶりだったのです。
また、フリーライターの小政りょうさんも、ネット記事で「アタック25」に出場したことを振り返っていました。
こちらもまた、46年も続いた理由が自然と見えてきたような気がします。
元々クイズ好きで、小さい頃からクイズ王にあこがれを持っていた小政さんが中でも一番メジャーな「アタック25」に参加しようと思うのは当然の事でした。
応募から抽選、予選会を経ての合格から半年後、朝日放送からついに出場依頼が来ました。
収録は1か月後の平日に大阪の朝日放送で行われるとのこと。
家族や知人などの応援団の参加も可能です。
本人のみですがや日当や交通費は出ます。
その際、スタッフから、放映予定日前後の日付で起こった出来事や時事ネタが出やすいので、押さえておいて欲しいということを言われました。(このことは全参加者に告げられます)
過去問や収録日前後のネタ、時事ネタを猛勉強し、1か月後、小政さんは収録が行われる朝日放送に赴きました。
楽屋が用意され、メイクもしていただき、いざ本番。
小政さんが出演したのも、児玉清さんが司会の時代です。
スラリとしてオーラ溢れる児玉さんに緊張しましたが、収録開始前に飴玉をいただき、とてもリラックスすることができました。
結果としては、パネルを5枚獲得でき、パネル獲得分の賞金5万円と参加賞を獲得しました。
最初こそ誤答続きでしたが、得意ジャンルを足掛かりに波に乗れたからでしょう。
各回答者の見せ場作りのため、事前に1問だけ得意ジャンルを指定することができるのです。
その場で受け取った参加賞は、当時20代の小政さんにとっては好みではない上に価値がわからず、親戚や知人にあげたりしてしまいましたが、調べるとかなりのブランド物で総額10万以上するもので、とっておけばよかったと悔やんでいました。
2011年5月に児玉さんが亡くなり、朝日放送の浦川泰幸アナウンサーを経て、2015年からは俳優の谷原章介さんが司会になりました。
その司会ぶりもようやく板についてきたところでの番組終了決定は、本当に残念でなりません。
ネットに転がっている参加者の体験記やリポートを見ていると、昔も今もさほど変わっていないようです。
しかも、どのリポートも番組を悪く言うようなものはなく、いい思い出となったことを口を揃えて言っています。
番組に寄せられた45周年記念思い出エピソードを見ると、全25枚のパネル獲得のパーフェクトを達成したという塾講師の男性の方(彼は「クイズタイムショック」で山口崇さん司会の時代最後の全12問正解のパーフェクトを達成している)は、その後同年のチャンピオン大会で優勝、1000回記念大会でも優勝、そして塾の教え子の女子高校生が高校生大会に出場して優勝したというそうです。(現在は公開終了)
Twitterでも「優勝トロフィーが届いた」とか、「きょうから優勝旅行のため仕事を休ませて頂きます」というツイートもありました。
このSNSの時代、クイズに限らず視聴者参加番組で、参加者に対し少しでも雑な扱いやヤラセの強要が発生すれば、口止めをしていてもすぐにばれてしまいます。
今までも賞金が払われなかったり賞品が渡されなかったりのトラブル、エキストラを入れての数合わせ、出来レースや過剰な演出など、多くの番組が過去に問題として取り上げられてきました。
それによって、番組のシステムを変えざるをえなかった番組、そのまま終了に追い込まれた番組もあります。
しかし、「アタック25」でそのような問題はほとんど出てきません。
その理由は、“参加者の扱いが丁寧で手厚い”ということであることです。
そのひとつが、解答を間違えると解答者はその場で立たされ2問失格となるが、妊娠している人などは体調を考慮して座ったままでも認められます。(2問失格は同じ)
番組側は毎週放映される多くの出演者のひとりでも、その人にとっては一生の思い出になるのです。
小政さんは別の素人参加番組にも参加申し込みをしたことがあるのですが、申し込んですぐ、3日後の収録に来てくださいと言われましたが、交通費は支給されず、仕事もあったので調整は難しく、断りました。
また別のクイズ番組に参加した際には、大勢参加ということもあり、一瞬もテレビに映らず終了してしまい、あまりいい思い出かありませんでした。
一方「アタック25」は優勝でなくても獲得したパネル分だけの賞金や参加賞などが多く、出場者個々の見せ場も用意され、優勝はできずともかなりいい気分で収録を終えることが出来ます。
準備期間も十分で、交通費や家族観覧の配慮も十分。
小政さんはスタジオで児玉さんと記念撮影もしてもらい、1日だけスターになった気分になりました。
失敗や恥ずかしい部分は放映で結果に支障がないようにカットされ、スタッフの気遣いも感じることが出来ました。
最近はコロナ禍で予選会の開催もままならず、タレント大会が増え、優勝旅行も海外旅行から国内旅行に変わっていました。
番組がどのように変化しようと、視聴率さえ下がらなければ継続できたはずです。
番組終了決定の報が流れると、ネットには、それを惜しむ声が殺到しました。
きっと、いつかは自分も出たいと思っていた人も多いでしょう。
5年経つと再出場が可能なため、リベンジしたいと思った人もいるでしょう。
でも、「スタッフはこの番組の価値がわかっていないのか?」とか「後番組が若年層をターゲットにした番組というのは的外れ」など、番組スタッフを責める声に対しては、「違う」と思います。
なぜって、あと4年で50周年を迎えられた番組が終了することを、いちばん悔しがっているのは、スタッフ、そして司会の谷原章介さんだろうと思います。
番組終了に文句をつけるくらいなら、これから毎週、視聴してほしいと思います。
現在、5%台の視聴率が、これからずっと倍になったら、「やっぱり続けます」ってなるかもしれないのですから。
番組のスタッフに言いたいのは、ただひと言。
これまで、視聴者参加型のクイズ番組をずっと守ってきてくれてありがとうございました。
お疲れさまでした。
それだけです。
失われた文化は、復活させれば継続すると思います。
タレントの千秋さんも、お母様が出場経験があるということで、惜別のコメントをTwitterで寄せています。
これだけ愛されていた番組ですから、なんとか今からでも存続させることはできないのでしょうか。
「アタック25」の終了後、スタッフにはぜひ、長年積み上げてきたクイズ番組づくりのノウハウを活かして、時代にマッチした新たな視聴者参加型クイズ番組を誕生させてほしいです。
もし、番組が終わってから、「終わって悲しい長寿番組」のアンケートがあるとなると、上位に入ってくることは間違いないでしょう。
朝日放送グループの夏の社長会見が7月14日、大阪市福島区の同局からオンラインで行われ、朝日放送テレビの山本晋也社長が会見しました。
「アタック25」が今秋で46年の歴史に幕を閉じることについて山本社長は「25枚のパネルと装置も含めて新たなクイズ番組を開発した。ずっと続いたことはみなさんからの支持があったからこそです。ファミリーで楽しんでいただく一定の役割を終えたかなと思います」と話しました。
山本社長は「クイズ番組の草分け的存在」としながら「ターゲットを考え、コンテンツも見直さなければならない」と46年間続いた長寿クイズ番組の終了を決めた経緯を説明。
さらに「U49(49歳以下)をターゲットにする。この5年、10代20代の若い層は、スマホの普及などライフスタイルが変わっている状況。テレビが期待されるメディアであり続けるために届くコンテンツを制作する」と新たな視聴者獲得方針を決めました。
コロナ禍で予選会の中止が相次ぎ芸能人大会が増え、また優勝旅行が海外から国内に変更されたことが終了の理由ではないようです。
アイデア段階と前置きしながら「あの時間帯でのアタック25の放送はなくなりますが、テレビではない、地上波ではない展開があるかもしれない」と“新・アタック25”の可能性を明かしました。