4月15日はアメリカ大リーグにとって特別な日です。
1947年のこの日、初の黒人大リーガー、ジャッキー・ロビンソン選手が初めて大リーグでプレーしました。
大リーグでは4月15日を「ジャッキー・ロビンソン・デー」としています。
ロサンゼルス・エンゼルスの大谷翔平投手は16日(日本時間17日)、本拠地アナハイムでのミネソタ・ツインズ戦に「2番・指名打者」で先発出場しました。
エンゼルスは15日に試合がなかったため、この日のエンゼルス・ナインはロビンソンの永久欠番42を揃って着けてプレーしました。
この日は、大谷投手のボブルヘッド人形が配布されました。
また、試合前にツインズの前田健太投手と10分間ほど談笑しました。
野球界、スポーツの世界を超え、社会に大きな影響を与えたジャッキー・ロビンソン。
ブルックリン・ドジャース(現在のロサンゼルス・ドジャース)で、1947年4月15日にメジャーに昇格しました。
ジャッキー・ロビンソンのプレーや行いは、今では多くの人々に伝わっています。
一般に、ジャッキー・ロビンソンが初めての黒人大リーガーといわれるが、これは大リーグの組織が整った1900年以降のことです。
アフリカ系アメリカ人選手は1884年にモーゼス・フリート・ウォーカーが先です。
しかしその後、大リーグは人種差別のリーグとして63年間の長きにわたり、白人以外は大リーグでプレーできませんでした。
ジャッキー・ロビンソンは1919年1月31日生まれ、アメリカ・ジョージア州出身。
ロビンソンは1941年にカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)を名誉退学、第二次世界大戦中は徴兵されました。
1945年からニグロリーグのカンザスシティ・モナークスでプレーしました。
しかし、環境に馴染めず1年で退団、ドジャースのブランチ・リッキー会長に誘われ、入団しました。
リッキー会長がロビンソンに求めたことは、差別を受けても「やり返さない勇気を持つ」ことでした。
ポジションは内野手で、最初はショートだったが、守備に難があり一塁手に転向しました。
入団前のオーナー会議ではドジャースに対して、フィラデルフィア・フィリーズやセントルイス・カージナルスはロビンソン排除を強硬に主張したが、当時のハッピー・チャンドラーコミッショナーはドジャースとロビンソンを支持し、フリック・フォードナショナルリーグ会長は、対戦拒否をしたら出場停止処分を課す命令を出しました。
1946年はインターナショナルリーグでプレーし、打率.349、113打点の好成績を残しました。
1947年4月15日の開幕戦、背番号42のロビンソンは63年ぶりのメジャーリーグデビューを果たしました。
ロビンソンは1年目にしっかり結果を出し、この年から制定された新人王に選ばれる活躍でした。
成績は打率.297、12本塁打、49打点、29盗塁でした。
ジャッキー・ロビンソンの成功により、他球団も黒人選手を入団させました。
1949年は打率.342、37盗塁で首位打者と盗塁王を獲得、MVPにも選ばれました。
同年は黒人選手としてはラリー・ドビー、ドン・ニューカム、ロイ・キャンパネラとともに初めてのオールスター戦出場を果たし、1954年まで6年連続でオールスター戦に出場しました。
さらに、同年から6年連続で打率3割を記録しました。
1955年はニューヨーク・ヤンキースを破り、初めてのワールドシリーズ優勝を果たしました。
1957年、現役を引退しました。
引退後は公民権運動に積極的に参加し、黒人の地位向上に大きく貢献しました。
1962年には1939年のルー・ゲーリッグ以来の有資格初年度で野球殿堂入りを果たしました。
1972年、背番号42がドジャースの永久欠番になりました。
同年10月15日、シンシナティで行われたワールドシリーズは第2戦で、試合開始前に「黒人メジャーリーグ進出25周年祭」が行われ、ロビンソンはレイチェル夫人とともにダイヤモンドに立ちました。
そして、ボウイ・キューンコミッショナーがリチャード・ニクソン大統領のメッセージを代読しました。
「彼こそは黒人最高の万能選手だった」
すっかり白髪頭になったロビンソンは始球式のボールをジョニー・ベンチ捕手(シンシナティ・レッズ)に投げ、これが彼の最後の雄姿となりました。
その9日後の24日、スタンフォードの自宅でロビンソンは亡くなりました。
53歳でした。
ロビンソンは亡くなる直前に自伝「I Never Had it Made」を書き上げました。
ロビンソンの活躍はメジャーへの黒人選手受け入れを早める役割を果たし、ハンク・アーロンやウィリー・メイズ、サチェル・ペイジのメジャーデビューの足がかりとなりました。
大リーグだけでなく、人種差別問題そのものに与えた影響も非常に大きいです。
多くのアスリートからも尊敬されています。
ドジャースのブランチ・リッキー会長は経営者として、大リーグの発展に貢献しました。
カージナルス時代はゼネラルマネジャーとしてマイナーチームをファームチームとして構築、今のマイナー組織の整備をしました。
そして、1942年にドジャースにゼネラルマネジャーとして迎えられました。
1944年、黒人選手受け入れに消極的だったランディスコミッショナーが亡くなると、黒人選手の受け皿を作り出し、ロビンソンの入団へこぎつけました。
背景にはブルックリンという土地柄、中流的な黒人家庭に向けてのマーケティング、そして、選手供給の不安からの開拓も考えていました。
しかし、奥底には当時のアメリカの極端な人種差別に対する嫌悪感があったと思われました。
もし、ロビンソンがデビューできなかったら、今ある大リーグの繁栄はなかったでしょう。
そして、日本人選手も大リーグで活躍できなかったでしょう。
デビュー50年目の1997年4月15日、ジャッキー・ロビンソンの背番号42は大リーグの全ての球団で永久欠番になりました。
ただし、マリアノ・リベラ投手(ニューヨーク・ヤンキース)ら従来から背番号42をつけていた選手は引き続き使用することが認められました。
2013年、リベラ投手の引退により、大リーグから背番号42をつけた選手がいなくなりました。