幻の「ドラえもん」 | 女装男子かなこのブログ

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国民的テレビアニメ「ドラえもん」には全く再放送されない、ビデオ化もDVD化もされていない、幻のバージョンが存在します。

それが、1973年に日本テレビ系で放送されていた通称「日テレ版ドラえもん」です。

視聴率が低迷し、わずか半年で終了してしまいました。

その6年後、アニメファンの間で「奇跡の年」と呼ばれる1979年、現在まで続くテレビ朝日版「ドラえもん」が放送開始され、日テレ版「ドラえもん」は再放送されなくなりました。

それから41年、日テレ版「ドラえもん」は再放送されないどころかビデオもDVDも発売されておらず、「ドラえもん」の関連書籍でも全く取り上げられない、幻の作品となっています。





「封印作品の謎」の著者であるルポライターの安藤健二さんが、日テレ版「ドラえもん」の制作主任だった下崎闊(しもさき・ひろし)さんの自宅を訪れた際、日テレ版「ドラえもん」の映像をDVDで見せてもらいました。

下崎さんは虫プロダクションで手塚治虫の秘書を務めた後、テレビアニメ「モンシェリCoCo」(TBS)の制作に携わり、それが縁でアニメ制作会社の日本テレビ動画に入社、「ドラえもん」の制作主任として発注業務やスケジュール管理を仕切っていました。

下崎さんは日テレ版「ドラえもん」のフィルムを会社から購入して、自宅で保管していました。

オープニング映像はテレビ朝日版と大きく異なり「ぼくのドラえもんがまちを歩けば、みんなみんなが振り返るよ」と、演歌のような女性ボーカルで、それに合わせてドラえもんとのび太がヘリトンボ(日テレ版では「タケコプター」ではなく「ヘリトンボ」と呼ばれていた。コミックでは「ヘリトンボ」から「タケコプター」に統一された)で飛んでいくものでした。

日テレ版は、現在のテレビ朝日版とはテイストが大きく違い、ドラえもんは間が抜けて、のび太は悪ガキっぽく、ドタバタギャグのようです。

ドラえもん役の声優は視聴率低迷のてこ入れのためか、前半の3か月間は富田耕生さん、後半の3か月間は野沢雅子さんで、男性から女性に代わっていました。

ジャイアンは体格が良くて力持ちだが、ガキ大将らしくなく、むしろ裕福な家に住んで威勢がいいスネ夫が子どもたちの間で威張りちらしていました。

ジャイアン役の声優は、テレビ朝日版ではスネ夫役の肝付兼太さん(故人)でした。

ジャイアンの母はすでに死亡、しずかちゃんの家にはお手伝いのボタ子がいて、後半には「ガチャ子」という鳥型ロボットが登場するなど、テレビ朝日版とは異なる設定が多いです。

安藤さんは音声が入っている計6話を観賞した結果、「これはこれで味があるな」と思いました。

今のドラえもんとは少し設定が違うパラレルワールドだが、独特の雰囲気があり、封印されて、黒歴史として扱われているのはもったいないと安藤さんは思いました。

時代色を消してポップにすることで、長寿作品となったテレビ朝日版の「ドラえもん」とはまるで違うものでした。

日本テレビ動画は社長が失踪事件を起こしたこともあり、日テレ版「ドラえもん」の終了直後に倒産しました。

制作主任を務めた下崎さんは日テレ版「ドラえもん」を手がけたのを最後に、アニメ業界からは身を引きました。

その後、2003年ごろに日テレ版「ドラえもん」について誤った情報がネット上で流布していることに気が付き、「真佐美ジュン」のペンネームで公式サイトを立ち上げました。

虫プロ時代のアニメや、日テレ版「ドラえもん」を豊富な資料で紹介する内容でした。

下崎さんは、「昔、『日テレ版のドラえもん』があったよと言いたいんです。昔は『とんでもない作品』とか、カラー作品なのに『白黒だ』とか(ただし、当時は白黒テレビで見た人も少なからずいた)、別のものが『これが日テレ版のセル画だ』とか、間違った情報が出回っていたんです。それが嫌で『一生懸命作ったアニメですよ』と言いたくてサイトを作りました。自分で作った作品だから愛着ありますよね。『こういう作品ですよ』と、見せたいというのが僕の活動の根底にあります」と言います。

日テレ版「ドラえもん」の放送時間は日曜夜7時で、民放4局の地域(当時は北海道、関東地区、中京地区、関西地区、福岡県)では永井豪原作のロボットアニメ「マジンガーZ」(フジテレビ)や人気クイズ番組「アップダウンクイズ」(毎日放送)と放送時間がかぶったこともあり、日テレ版「ドラえもん」の初回放送の平均視聴率は6.6%(関東地区)と苦戦しました。

ちなみに、私はこの時間は「アップダウンクイズ」を見ていて、「マジンガーZ」は再放送で見たが、日テレ版「ドラえもん」は再放送でも見たことがありません 。

そのため「日テレ版」は黒歴史のように扱われているが、下崎さんは「ドラえもん」というコンテンツが長寿作になったのは、「日テレ版」の功績も大きいと考えています。

日テレ版「ドラえもん」は視聴率低迷のため打ち切りにされたといわれていますが、実際は視聴率についてはそれほど期待しておらず、日本テレビからも最初から4〜5%取れればいいという話で始まっており、放送期間も当初から6か月の予定(延長オプションあり)でした。

当時、「ドラえもん」はマイナーな作品で、小学館の学年誌でしか読むことができませんでした。

日テレ版「ドラえもん」の全国放送が終わってから徐々に人気が出てきたのです。

日テレ版「ドラえもん」の放送当時、新聞に掲載された番組紹介の記事には「わが輩を知ってるかい?」「ドラえもんとはこんなケッタイな猫なのだ」という見出しが並んでいました。




コンテンツとしての「ドラえもん」の知名度が低かったことがうかがえます。

当時、漫画原作のテレビアニメは、アニメの放送が終了したら漫画の連載も終了するのが一般的でした。

しかし、「ドラえもん」は作者の藤子・F・不二雄さん(故人)の意向もあって、連載は続けられました。

「ドラえもん」の人気は日テレ版放映後に上昇、1974年に「てんとう虫コミックス」から単行本が刊行されたことで、連載媒体の学年誌以外にも読者層が広がりました。

1977年には雑誌「コロコロコミック」が創刊され、「ドラえもん」が多数収録されるようになりました。

シンエイ動画が手がける「ドラえもん」のテレビアニメが、1979年4月からテレビ朝日系で新たに放送されるようになりました。

「こんなこといいな、できたらいいな」の歌詞で始まる大杉久美子さんの主題歌の、あのアニメです。

当初は日曜朝8時30分からの30分番組(全国ネット)と、月~金曜日の夕方6時50分からの10分番組(関東ローカル)の2本立てでした。

ところがその3か月後、テレビ朝日版の放送が日本各地で始まっているというのに、日テレ版が富山テレビで再放送されたのです。

これは、藤子不二雄ファンの間で「富山事件」と呼ばれています。

富山テレビはフジテレビ系で、富山県の日テレ系列局は北日本放送なので、初回放送とは異なる局で放送されたので正確には再放送ではなく富山テレビでの初回放送になるわけだが(当初、 富山県ではテレビ朝日版「ドラえもん」は放送されていなかった。なお、現在も富山県はテレビ朝日系列局がなく系列外ネット)、これに原作者の藤子・F・不二雄さんは激怒しました。

これについて、藤子不二雄作品のアニメ化に関わっていた小学館元専務の赤座登さんは「藤本(藤子・F ・不二雄の本名)先生は大変お怒りになっていました」と振り返っていました。

藤子・F・不二雄さんは旧作の内容が全く気に入っておらず、「原作とは似て非なるものだ」と言いました。

「たしかに一度は許諾して作ったものだけど、私が作った原作のイメージと全然違うし、放送して欲しくない。できたら何とかしてほしい」という意向でした。

日テレ版をめぐって、藤子・F・不二雄さんが所属していた藤子スタジオとアニメ会社は契約書を交わしておらず、口頭での契約だったそうです。

藤子スタジオは小学館と連名で「再放送は許諾できない。法的措置も考える」と、富山テレビに内容証明を送って抗議したことを赤座さんは明かしていました。

これまでの経緯を考えると、日テレ版「ドラえもん」の復活への道のりは、かなり厳しいようです。

「ドラえもん」の原作漫画も、藤子・F・不二雄さんが難色を示したことで単行本未収録となったエピソードが大量にありました。

しかし、藤子・F・不二雄さんの死後、2009年から発行された「藤子・F・不二雄大全集」には全て収録されました。

日テレ版「ドラえもん」は最終話を含むシリーズ末期の計16話(放送8回分)のネガフィルムがIMAGICAで保存されています。

だが、フィルムが散逸していることに加え、制作した日本テレビ動画が消滅したために著作権の所在が不明になっており、日テレ版「ドラえもん」の再放送やDVD化は現状ではかなり困難になっています。