今年の沢村賞に広島・ジョンソン投手が選ばれました。
沢村賞は不世出の大投手、沢村栄治投手(巨人)の功績を讃えて1947年に設けられた、日本プロ野球でその年に最も活躍した先発型投手に贈られる賞です。
2リーグ制となった1950年以降はセ・リーグの投手のみを対象にしていましたが、1989年からはパ・リーグの投手も対象になりました。
現在のところ、ロッテだけ受賞者が出ていません。
しかし、ジョンソン投手の成績は数字的には物足りないものでした。
15勝は広島・野村祐輔投手の16勝に次ぐ2位、防御率2.15も2.01の巨人・菅野智之投手に次ぐ2位、奪三振141は5位でした。
勝利・防御率・奪三振の主要タイトルなしの選出は1981年の巨人・西本聖投手以来です。
同年の沢村賞は西本投手の受賞で物議を醸しました。
1981年、巨人・江川卓投手が31試合に登板して240回1/3を投げ、20勝6敗、勝率.769、24完投(7完封)、221奪三振、防御率2.29の成績で最多勝、最優秀防御率、最多奪三振を獲得、しかも沢村賞の選考基準となっている登板25試合以上、完投10試合以上、15勝以上、勝率6割以上、投球回数200回以上、奪三振150以上、防御率2.50以下の7項目を全てクリアしていました。
一方の西本投手は34試合に登板して257回2/3を投げ、18勝12敗、勝率.600、14完投(3完封)、126奪三振、防御率2.58の成績、奪三振と防御率は基準を下回り、タイトルも獲っていませんでした。
当時の沢村賞は記者投票によって選ばれていました。
沢村賞を制定した読売新聞社は選考を東京運動記者クラブ部長会に委嘱しており、同年10月14日に開催された選考会には加盟44社のうち31社の運動部長が出席しましたが、成績以前に江川投手の「人間性」を問う声が噴出しました。
江川投手は1978年11月、ドラフト会議前日の「空白の一日」を突いて巨人と電撃契約、これが「無効」とされて巨人はドラフト会議を欠席、江川投手の交渉権はドラフトで1位指名した阪神が獲得しました。
巨人が新リーグ結成をちらつかせて江川投手との契約の正当性を主張する中、金子鋭コミッショナーが「強い要望」を出し、江川投手はいったん阪神と契約した上で小林繁投手との交換トレードで巨人入りを果たしました。
それから3年、取材現場で江川投手のひょうきんな一面に接した担当記者の意識はかなり変わっていたが、大半の部長の頭には「ダーティー」「ごり押し」のイメージがこびりついたままでした。
選考会は最終的に無記名投票を行い、西本投手16票、江川投手13票、白票2票で、結果、西本投手が選ばれました。
野球評論家の江本孟紀氏は、西本投手が沢村賞を受賞できた唯一の理由として、「左足を高く上げるピッチングフォームが、沢村投手のそれとよく似ている」と自身の著書の中で述べていました。
結局、各方面から強い批判を受けた部長会は沢村賞の選考を辞退、翌1982年からは元投手をメンバーとする選考委員会で選ぶことになりました。
話しを元に戻しましょう。
確かに「先発完投型」の投手に与えられる賞としては寂しい成績で、ジョンソン投手は選考基準7項目のうち完投数(3)、投球回数(180回1/3)奪三振数(141)の3項目を満たしておらず、選考委員会では「該当者なし」という意見も出ました。
ちなみに今年の選考委員は堀内恒夫委員長以下、平松政次、村田兆治、北別府学、山田久志の各氏でした。
投手の分業化が進んで完投が激減していますが、これは日本プロ野球だけでなく、アメリカ大リーグでも同じです。
大リーグでは先発投手の出来を示す指標として、先発して6回を投げて3自責点以内に抑える、いわゆる「クオリティースタート」(QS)が使われています。
最近では大リーグの最優秀投手「サイ・ヤング賞」の選考にも「クオリティースタート」が重視されるようになってきました。
しかし、「先発投手がクオリティースタートをしたからといって、チームの勝利は確実になるのか?」など、異論も多いです。
いずれにせよ、今年は両リーグで一人も到達しなかった完投数と投球回数の見直しがあるかもしれません。