11月中旬過ぎに、父が亡くなりました。
今年に入ってから、食欲が落ち、10月末?から、肺炎になり、取り入れる酸素が少ない為、私が会った最期の日は、実家に酸素ボンベが運ばれた日で、
鼻から酸素吸入のチューブを入れており、携帯用の酸素ボンベと、その鞄?コロコロみたいなのも、ありました。
(翌日には入院したので、使ったのはその日だけ)
話すのも辛そうで、その夜は母の介助で入浴した最期で、その後入退院を繰り返し、呼吸器専門の科がある病院へ転院。
呼吸器専門の科への入院は、コロナ擬陽性という設定で入りました。
(事前の検査は陰性)
ガンの腫瘍マーカーの数値が高いから、ガン(部位は不明)の影響?
しかし、もう83歳だし、父も検査や手術はしたくないと言ってたから、酸素ボンベつけたまま居れる施設に転院する説明を受けた日の午後に、急遽亡くなりました。
透析後すぐが原因かも、ですが、解剖で原因究明も断りました。
皆、あんまり長くないとは覚悟してました。
父に対しても、複雑な気持ちはありましたが、父なりの苦労をして、不器用な生き方しかできない人だったんだな、と、感じています。
悲しみは一切無いです。
皆の手を煩わすことなく逝ったのが幸いです。
(父の面倒だけは、娘たちは拒否してたので)
葬儀が終わった翌朝、母の血圧が急降下して、救急車を🚑呼ぶ事態になり、私はずっと実家に泊まってました。
ほぼ母は寝室で寝てたから、メンタルを引っ張られる事も少なかったんですが、妹たちが、交代で実家に泊まってから、私は自宅に戻ったけど、それからは、実家には泊まれなくなりました
ほぼ引きこもりの毎日を送ってたのが、ワンコの散歩1日4回
家事、書類等の手続きで疲れました…
特に苦痛だったのが、人との応対です
顔が広くて、兄弟姉妹も多い両親。
友引を挟み、家族親戚だけの葬儀と伝えたから、1日置いた日は、弔問客がひっきりなしでした
喪主と喪主の挨拶は、生前両親がお互いすると決めてました。
通夜、告別式、焼き場で、私はパニック症状が出て、トイレに駆け込み、最悪でしたが、なんとか持ち堪えました
母が亡くなった時の喪主と挨拶は、三姉妹の長女の私がするのかな?
喋るのも困難だったのに、できるんでしょうか
前回のブログ記事の「着物リメイク」は、父が亡くなる前に下書きで保存してたものです。
徐々に落ち着きつつありますが、母はまだ本調子ではないから、覗きに行かないとだめです。
私も日が経つごとに、しんどさが増してます…。
両親は、ずっと私たち子供愛より、男と女だった。
喧嘩やモラハラの中でも、仕事、趣味、お出かけも、ずっと二人一緒だったので、この後、母はどうなるんだろう、と思います。
人の為に生きてきて、自分がない、わからない母なので、趣味や生きがいを見つけてほしいと思います。
思いつくままに、つらつらと書きました。
写真は、実家のわんこの朝散歩の時に、スマホで撮りました。
拙い文章をお読み下さり、ありがとうございました😊
寒くなったので、皆さまも体調には気をつけてくださいね。